日本の降伏とソ連の占領
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「北方領土問題」の記事における「日本の降伏とソ連の占領」の解説
1945年8月:停戦とその後の侵攻8月14日:日本は御前会議において、米・英・中・ソの共同宣言(ポツダム宣言)の受諾を決定し、連合国へ同宣言の受諾を通告した。 8月15日:日本国内では降伏と敗戦を国民へ告げる玉音放送が流され、日本軍は自発的戦闘行動を停止した。ソ連は北千島への作戦準備及び実施を内示、8月25日までに北千島の占守島、幌筵島、温禰古丹島を占領するように命じた。 8月16日:日本領であった南樺太へソ連が侵攻した。この際、米ソ合同作戦「プロジェクト・フラ」によりアメリカ合衆国(米国)で建造された軍艦や米軍に習熟訓練を受けたソ連兵も参加し、この後の侵攻でも使われた。 8月16日:日本の大本営から即時停戦命令が出たため、日本側の関東軍総司令部が停戦と降伏を決定。 8月18日:ソ連軍は千島列島への侵攻と占領を開始し、北端の占守島に上陸した(占守島の戦い)。ソ連軍は約2万5千人の日本軍と交戦したが、日本軍は司令部の命令により交戦を中止した。8月23日に日ソ両軍は現地で停戦協定を締結し、日本軍は武器をソ連軍に引き渡した。 8月23日:スターリンは「国家防衛委員会決定 No.9898」に基づき、日本軍からの捕虜50万人をソ連内の捕虜収容所へ移送し、強制労働を行わせる命令を下した。これにより日本人捕虜たちは主にシベリアなどへ労働力としてソ連の各地へ移送・隔離され、シベリア抑留問題となった。 8月28日から9月1日までに、ソ連軍は千島列島各地に駐屯する日本兵を武装解除しながら南下を続け、8月31日までに得撫島を占領した。ソ連軍は8月28日に択捉島に上陸し、9月1日には国後島、色丹島に、9月3日には歯舞群島に上陸した。 9月5日までにソ連軍が択捉島・国後島・色丹島を占領した。 9月3日から5日にかけてソ連軍が歯舞群島を占領した。 これら四島の占領の際には日本軍は組織的戦闘をすでに終了していたため、占領過程で死傷者は出なかったとされる。 9月2日:日本は、東京湾上のアメリカ戦艦ミズーリの甲板において、連合国と降伏文書を締結した。これにより停戦となった。同文書では、連合国側として連合国最高司令官とソ連を含む各国代表も署名を行い、国際的に停戦が確認された。既に8月22日に千島諸島の日本軍は戦闘停止していたが、連合国からの指令「一般命令第一号」で千島諸島の日本軍は「ソヴィエト」極東軍最高司令官に降伏すべきこととされた。 ソ連は当時、樺太と千島にとどまらず、北海道本島の北半分を占領することを目標としていた。
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