日本の降伏からジュネーヴ協定まで(1945~1955)
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「ベトナム民主共和国」の記事における「日本の降伏からジュネーヴ協定まで(1945~1955)」の解説
日本軍が降伏してベトナム帝国が崩壊すると、ベトナムは連合国軍の占領下に入った。日本軍の武装解除の為、まずフランス領インドシナ北部には中華民国軍が、南部にはイギリス軍が進駐した。中華民国軍の支配下で、ベトミンはベトナム国民党などとの連立内閣を組織しており、翌1946年の総選挙後もこれを維持していた。しかし南部ではイギリス軍に代わり旧植民地の再支配を謀るフランス軍が再進駐し、1945年9月末にはサイゴンの支配権を奪取したことで、ベトミンとの武力衝突が発生した。ベトミンはフランスとの交渉による解決を試み、1946年3月にはフランス連合内での独立が認められた。だが、インドシナ一帯の再支配を目論むフランス政府は、ベトナムが共産主義国家として独立することを拒否し、コーチシナ共和国の樹立などさまざまなかたちで分離工作を行なった。そのため、越仏双方が抱く意見の相違は解決されず、同年12月にハノイで越仏両軍が衝突したことで、第一次インドシナ戦争が勃発した。 開戦当初はフランス軍が優勢であった。だが、山岳地帯に引きこもって軍隊を組織したベトミンは、フランス軍との戦力差を考慮してゲリラ戦で対抗した。この際、日本軍兵士の一部も残留日本兵としてベトミン軍に参加。戦争の長期化に直面したフランスは1949年6月、ベトナム民主共和国に代わるベトナム人国家としてベトナム国をサイゴンに成立させ、国家承認した。ベトナム国がアメリカ、イギリスからも国家承認を受けたのに対し、1950年にはベトナム民主共和国がソ連型社会主義国家のソビエト連邦と中華人民共和国から国家承認を受け、両国からの援助を得ながら抗戦を続けた。こうしてこの戦争は、冷戦の体制競争という側面も有するようになった。 第一次インドシナ戦争の長期化は、戦争に疲れたフランス国民の厭戦感を高めた。そのため、フランス政府は戦争終結に向け、1954年4月からジュネーヴ会議を開始した。そして、ディエンビエンフーの要塞陥落を受けて、1954年7月21日にジュネーヴ休戦協定を締結した。協定により、ベトナムの国土は北緯17度線で南北に分割され、北ベトナムをベトナム民主共和国が、南ベトナムをベトナム国が(1955年まで)統治することになった。しかし、恒久的な分割を避けるため、1956年に再統一のための全国選挙を実施することも決められた。
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