日本の降伏からジュネーヴ協定までとは? わかりやすく解説

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日本の降伏からジュネーヴ協定まで(1945~1955)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/23 05:55 UTC 版)

ベトナム民主共和国」の記事における「日本の降伏からジュネーヴ協定まで(1945~1955)」の解説

日本軍降伏してベトナム帝国崩壊すると、ベトナム連合国軍占領下入った日本軍武装解除の為、まずフランス領インドシナ北部には中華民国軍が、南部にはイギリス軍進駐した。中華民国軍支配下で、ベトミンベトナム国民党などとの連立内閣組織しており、翌1946年総選挙後もこれを維持していた。しかし南部ではイギリス軍代わり旧植民地の再支配謀るフランス軍再進駐し、1945年9月末にはサイゴン支配権奪取したことで、ベトミンとの武力衝突発生したベトミンフランスとの交渉による解決試み1946年3月にはフランス連合内での独立認められた。だが、インドシナ一帯の再支配目論むフランス政府は、ベトナム共産主義国家として独立することを拒否しコーチシナ共和国樹立などさまざまなかたちで分離工作行なった。そのため、越仏双方が抱く意見の相違解決されず、同年12月ハノイで越仏両軍衝突したことで、第一次インドシナ戦争勃発した開戦当初フランス軍優勢であった。だが、山岳地帯に引きこもって軍隊組織したベトミンは、フランス軍との戦力差を考慮してゲリラ戦対抗したこの際日本軍兵士一部残留日本兵としてベトミン軍に参加戦争の長期化直面したフランス1949年6月ベトナム民主共和国代わるベトナム人国家としてベトナム国サイゴン成立させ、国家承認した。ベトナム国アメリカ、イギリスからも国家承認受けたのに対し1950年にはベトナム民主共和国ソ連型社会主義国家ソビエト連邦中華人民共和国から国家承認を受け、両国からの援助を得ながら抗戦続けた。こうしてこの戦争は、冷戦体制競争という側面有するようになった第一次インドシナ戦争長期化は、戦争疲れたフランス国民厭戦感を高めた。そのため、フランス政府戦争終結に向け、1954年4月からジュネーヴ会議開始した。そして、ディエンビエンフー要塞陥落受けて1954年7月21日ジュネーヴ休戦協定締結した協定により、ベトナム国土北緯17度線南北分割され北ベトナムベトナム民主共和国が、南ベトナムベトナム国が(1955年まで)統治することになった。しかし、恒久的な分割避けるため、1956年再統一のための全国選挙実施することも決められた。

※この「日本の降伏からジュネーヴ協定まで(1945~1955)」の解説は、「ベトナム民主共和国」の解説の一部です。
「日本の降伏からジュネーヴ協定まで(1945~1955)」を含む「ベトナム民主共和国」の記事については、「ベトナム民主共和国」の概要を参照ください。

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