日本の陰陽道
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平安時代の中頃から貴族社会に浸透した。初見は『小記目録』第8巻「御祭事付解除」の「永延二年十月十一日招魂祭時」という記述。「永延二年」は988年。人には「魂」というものがあると信じられ、熟睡したり悩み事に屈託したときには衰弱した肉体からその「魂」が遊離すると考えられていた。そのため、病気やお産などの際に身体から遊離した魂を屋根の上で衣を振るなどして招き戻す祭祀を行った。生者に対して行う祭祀であり、死者に対して行うことは禁止されていた。禁を破った者は罰せられた(『左経記』1025年8月23日条)。1025年8月の藤原嬉子の死去に際し陰陽師の中原恒盛は招魂祭を行い、祓を科せられそうになったという。日本の陰陽道では死者に対しては行わない点が中国の道教との大きな相違点である。これについては、平安時代前期より、陰陽寮の職掌が拡大して神祇官の職掌とも被るようになり、神祇官が扱う神道の死や穢れに対する忌避が陰陽道の世界にも入り込んだために陰陽師が生死に関わる問題に関わる事が禁じられたと説明されている(例えば、病気の原因を怨霊や物の怪によるものだと占ったとしても、そこから先は僧侶の加持祈祷に任せるなど)。ただし、これは所謂官人の陰陽師に関する話で、民間における活動では陰陽師が物の怪を祓う事例もあるため、民間の陰陽師にまで徹底されていたのかは不明である(また、招魂祭は別としても11世紀後半には貴族社会でも怨霊や物の怪の排除に陰陽師が関わるようになる)。
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