平安以降
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/19 05:09 UTC 版)
平安時代以降は、律令制の弛緩と藤原氏の台頭につれて、形式化が進んだ宮廷社会で高まりつつあった怨霊に対する御霊信仰などに対し、陰陽道は占術と呪術をもって災異を回避する方法を示し、天皇や公家の私的生活に影響を与える指針となった。これにともなって陰陽道は宮廷社会から日本社会全体へと広がりつつ一般化し、法師陰陽師などの手を通じて民間へと浸透して、日本独自の展開を強めていった。 日本の陰陽道は、陰陽道と同時に伝わってきた道教の方術に由来する方違、物忌、反閇(呪術的な足づかい、歩き方)などの呪術や、泰山府君祭などの道教的な神に対する祭礼、さらに土地の吉凶に関する風水説や、医術の一種であった呪禁道なども取り入れ、日本の神道と相互に影響を受けあいながら独自の発展を遂げた。8世紀末からは密教の呪法や密教とともに新しく伝わった占星術(宿曜道)や占術の影響を受ける。 また、陰陽道は平安時代前期より国家祭祀への関与を志向して、本来国家祭祀を管轄していた神祇官が行ってきた神道の影響も受け始める。神道は死や穢れを忌むことを重要視したため、中国からの伝来当時には含まれていた死霊祭祀や病気対策を始めとする人の生死に直接関わる案件は陰陽寮からは排除される(例えば死者への招魂祭の否定。あるいは病気の原因を怨霊や物の怪によるものだと占ったとしても、そこから先は僧侶の加持祈祷に任せるなどなど)。もっとも、これは官人の陰陽師の話であって民間での活動を何処まで規制できたのかは別の問題で、11世紀後期以降になると貴族側の要請を受けた陰陽師が病を惹き起こす物の怪を祓う例も見られるようになる。
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