平安京羅城門
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平安京の羅城門は、現在の京都府京都市南区唐橋羅城門町に位置する(位置)。規模は、『拾芥抄』などでは桁行7間・梁間2間で二重閣とするが、裏松固禅の『大内裏図考証』では桁行9間とする。 文献上では、『日本紀略』において弘仁7年(816年)8月16日夜に大風で倒壊したと見えるほか、その後に再建された門も『百錬抄』によれば天元3年(980年)7月9日の暴風雨で倒壊したと見え、以後は再建計画が上がるも実際に再建されることはなかった。ただし『今昔物語集』「羅城門上層ニ登リテ死人ヲ見シ盗人ノ語」によれば、倒壊以前にはすでに荒廃しており、上層では死者が捨てられていた(後世の芥川龍之介の『羅生門』の題材)。『小右記』では、11世紀前半頃に藤原道長が法成寺建立に際して礎石を持ち帰ったと見え、当時には礎石のみの状態であった。そのほか、羅城門の鬼に関する謡曲「羅生門」などの様々な怪奇譚が知られる。羅城門の遺構は、現在までに確認には至っていない。現在羅城門跡付近に残る「唐橋」の地名は、羅城門前の溝に架けられた橋に因むとされる。なお、東寺蔵の木造兜跋毘沙門天立像(国宝)や三彩釉鬼瓦(国の重要文化財)は、元は平安京羅城門にあったものと伝えられる。毘沙門天像の安置について、『雍州府志』では唐の西蕃侵攻平定の故事に因むとするが、同書では「八臂毘沙門天像」とあって東寺のものとは異同しており、詳細は明らかでない。また三彩釉鬼瓦については、大内裏の豊楽殿跡出土のものと同笵であることが判明している。 羅城について、『延喜式』では城壁ではなく「垣」と見え、基底部幅6尺とする。また『大内裏図考証』では京域周囲に黒線が引かれることなどから、土塁・溝等の存在も推測される。近年の発掘調査のうち、2018年(平成30年)の京域東端(東京極大路)における発掘調査では、羅城の規格に沿う幅の整地層は認められたが、城壁自体は確認されていない。2019年(令和元年)の京域南端(九条大路)の西寺跡西側における発掘調査では、九条大路の南側で南北幅約3メートル・高さ約0.15メートルを測る、砂礫・土を交互に盛り固めた高まりが検出されており、これが羅城(築地塀か)の基底部にあたると推定されるとともに、当該調査地では羅城の外側に犬走・側溝は存在しなかったことが確認されている。 木造兜跋毘沙門天立像(東寺蔵、国宝) 羅城門の鬼鳥山石燕『今昔百鬼拾遺』 羅城門の鬼退治月岡芳年 右京九条二坊四町付近の羅城遺構手前に羅城基底部、右奥に九条大路。
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