平安初期の出挙
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/06 09:31 UTC 版)
平安期にはいると、正税と並んで公出挙が主要な地方財源となっていった。これに伴い、平安前期の弘仁貞観期(9世紀)には、政府の租税方針も律令が当初想定していた人への課税から土地への課税へと転換していき、例えば、土地に対して公出挙の納入義務が課せられるような事例も見られた。 地方機関の倉庫(正倉)には正税を備蓄し、地方機関が備蓄米を公出挙により運用することとされていた。しかし、公出挙のウェイトが大きくなってくると、地方機関の出挙運用に様々なトラブルが起こるようになり、利稲を確保できない状況も生じていた。このころには地方機関による公出挙の他、地域の富豪・有力百姓ら(田堵など)も零細百姓らを対象に私出挙を行うようになっており、9世紀には広範囲の国で、公出挙と私出挙を組み合わせた租税徴収方法が模索されていた。これは、公出挙の貸付先として利払いが滞りがちな小規模広範囲の百姓ではなく、大規模で少数の有力百姓等を指定し、彼らが公出挙により受け取った本稲(元本の稲)を私出挙の財源とすることを認めたものであった。彼らは年利30%で公出挙の本稲を借り受け、年利50%で貸し付けることにより20%の利息を得ることとなった。 更に9世紀後半には、地域の富豪・有力百姓らの私倉を正倉と認め(里倉)、彼らに公出挙運用を請け負わせることで、地方機関の出挙収入の確保が図られるようになった。これを里倉負名(りそうふみょう)という。里倉負名制では、負名と呼ばれるようになった地域の富豪・有力百姓ら請負人は徴税役人に任命された。負名は、私出挙により得た50%の利子のうち30%分を公出挙の利子として地方機関に納入すれば残りの20%を正倉管理料、運用請負費用等として自分のものとすることが出来た。 このような状況の下、公出挙と不可分の存在となった私出挙も半強制的に行われていた。私出挙においては、借受側の百姓らの宅地・耕地・奴婢などが担保とされていたが、高利のため返済できない例も多く、担保物件は貸与側の所有へと移転(質流れ)することとなり、富の集中・蓄積が進んでいった。このようにして、平安中期ごろには、富豪層による地域支配が徐々に拡がり始めていき、これが中世の萌芽へつながって行った。
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