平安宮の朝庭
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長岡遷都の10年後の794年(延暦13年)に、桓武天皇により遷都された平安京の平安宮(大内裏)では朝堂の殿舎数は12堂に戻されたが、文書行政の進展、曹司の充実に加え、朝政の儀式化などの影響もあって、朝庭空間は藤原宮、平城宮にくらべさらに規模の縮小化がみられた。 かつては有位の官人は毎日朝参し、大王の出御する大殿ないし大極殿の前の朝庭で政務を執った。しかし、律令制が整備され、官司の機構も複雑化して、官人の数そのものも多くなるにつれ、朝参はしだいに一部の官人に限られるようになり、日常的な政務は曹司でおこなわれることが増えてくる。また、内裏は朝堂院の北東に完全に分離してつくられたが、こうした分離の傾向や規模の縮小化は、朝堂院から曹司が分化して執務の場が徐々に朝堂院外へうつった現れと考えられる。 なお、平安時代の『延喜式』によれば、諸司の五位以上の官人は、雨天の日や節日、霜月(旧11月)から如月(旧2月)にかけての寒冷な時期を除き、基本的には毎朝、自らの僚下の官人を率いて朝座に就いて朝堂での政務にあたることとなっていたが、降雨の日には朝堂への着座が避けられ、朝堂院外の曹司へ直行することとなっていた。これは、朝庭がぬかるんでしまうためであった。その意味では、朝庭での政治である朝政は確かに儀式化・形式化はしたものの、反面では、朝庭のぬかるみは忌避すべきもの、朝庭は清浄に保つべきものという意識はのこったものと考えられる。 平安宮では、朝拝を中心とする儀式は朝堂院でおこなわれていたが、節会など饗宴を中心とする儀式は豊楽院で執りおこなわれることとなった。818年(弘仁9年)、平安宮では朝堂各堂は、中国風の号が名づけられた。また、これ以後、朝堂院全体は「八省院」と呼ばれるようになった。八省院は、3度火事に見舞われた。うち2度までは再建されたものの1177年(安元3年)の安元の大火ののちは再建されず、こののち朝儀は主に内裏の紫宸殿でおこなわれることとなった。
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