平安宮の朝庭とは? わかりやすく解説

平安宮の朝庭

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/07/25 08:00 UTC 版)

朝庭」の記事における「平安宮の朝庭」の解説

長岡遷都10年後の794年延暦13年)に、桓武天皇により遷都された平安京平安宮大内裏)では朝堂殿舎数は12堂に戻されたが、文書行政進展曹司充実加え朝政儀式化などの影響もあって、朝庭空間藤原宮平城宮にくらべさらに規模の縮小化がみられた。 かつては有位官人毎日朝参し、大王出御する大殿ないし大極殿の前の朝庭政務を執った。しかし、律令制整備され官司機構複雑化して、官人の数そのもの多くなるにつれ、朝参はしだい一部官人限られるようになり、日常的な政務曹司おこなわれることが増えてくる。また、内裏朝堂院北東に完全に分離してつくられたが、こうした分離傾向規模の縮小化は、朝堂院から曹司分化して執務の場が徐々に朝堂院外へうつった現れ考えられる。 なお、平安時代の『延喜式によれば諸司五位上の官人は、雨天の日や節日霜月(旧11月)から如月旧2月)にかけての寒冷な時期除き基本的に毎朝、自らの僚下の官人率いて朝座に就いて朝堂での政務にあたることとなっていたが、降雨の日には朝堂への着座避けられ朝堂院外の曹司直行することとなっていた。これは、朝庭ぬかるんでしまうたであったその意味では、朝庭での政治ある朝政は確かに儀式化形式化はしたものの、反面では、朝庭ぬかるみ忌避すべきもの、朝庭清浄に保つべきものとい意識のこったものと考えられる平安宮では、朝拝中心とする儀式朝堂院おこなわれていたが、節会など饗宴中心とする儀式豊楽院執りおこなわれることとなった818年弘仁9年)、平安宮では朝堂各堂は、中国風の号が名づけられた。また、これ以後朝堂院全体は「八省院」と呼ばれるようになった八省院は、3度火事見舞われた。うち2度までは再建されたものの1177年安元3年)の安元の大火ののちは再建されず、こののち朝儀は主に内裏紫宸殿おこなわれることとなった

※この「平安宮の朝庭」の解説は、「朝庭」の解説の一部です。
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