平安宮の朝堂
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桓武天皇が長岡遷都わずか10年足らずで平安京の造営に踏み切ったことについて、岸俊男は、一時は財政上の理由で小規模な宮都を造営したものの、さまざまな点で不都合が生じ、また種継暗殺の影響もあって従来型の都城を建設する必要がでてきたのではないかと推測している。選ばれたのは、長岡京の北東およそ10キロメートル、山背国葛野郡であった。平安京の造営はまず宮城(平安宮)から始められた。 平安宮は別名「大内裏」と称されている。長岡宮にいたって朝堂院と分離した内裏は、平安宮にあっては、朝堂院北東に離れて位置するようになった。その反面、大極殿前面の回廊が消滅して、大極殿と朝堂一郭は一体化し、「龍尾檀」という少し高い檀が設けられるのみとなった。また、朝堂院の西側に、饗宴の場として朝堂院と同規模の豊楽院が並置された。 平安宮の朝堂における、それぞれの殿舎の規模は、 一堂 … 桁行7間、梁行2間、庇なし(正面に土庇)、切妻 二堂・三堂 … 桁行9間、梁行2間、庇なし(正面に土庇)、切妻 四堂 … 桁行15間、梁行2間、庇なし(正面に土庇)、切妻 五堂・六堂 … 桁行7間、梁行2間、庇なし(正面に土庇)、切妻 であった。 平安宮における朝座の配置は、左弁官に属する中務省、式部省、治部省、民部省の四省が東方に、右弁官に属する兵部省、刑部省、大蔵省、宮内省の四省が西方に配されたとされる。これは、岸俊男が明らかにしたものであるが、このことより朝座の配置は左弁官・右弁官の分属を原則とするものと推定されてきた。また、岸は、朝堂院が従来はもっぱら「朝儀の場」として捉えられて考察されてきたことを批判し、本来的にはむしろ推古朝の小墾田宮から平安宮まで一貫して「朝政の場」であったことを、1960年代以降急速に進展した都城の発掘調査の成果をもとに明らかにした。 818年(弘仁9年)、平安宮では朝堂各堂は、中国風の号が名づけられた。以下に、それぞれの殿舎につけられた号と『延喜式』より復元した着座の堂を示す。なお、着座の堂に関しては、かつての岸の比定からみると若干の異動がある。 東一堂を昌福堂と命名し、以下東側は、含章堂、承光堂、明礼堂の3堂が南北方向につらなり、東五堂の暉章堂、東六堂の康楽堂は東西を長軸として前後に並び、全体として逆L字状の平面を呈する。着座の官司は、昌福堂が太政大臣・左右大臣、含章堂が大納言・中納言・参議、承光堂が中務省・図書寮・陰陽寮、明礼堂が治部省・雅楽寮・玄蕃寮・諸陵寮、暉章堂が少納言・左弁官・右弁官、康楽堂が主税寮・主計寮・民部省である。 西側は、延休堂を西一堂とし、以下、東側と対称的にL字状に並ぶ。それぞれの堂の名称と着座官司は、延休堂(親王)、含嘉堂(弾正台)、顕章堂(刑部省・判事)、延禄堂(大蔵省・宮内省・正親司)、修式堂(式部省・兵部省)、永寧堂(大学寮)である。 朝堂院全体を「八省院」と呼ぶようになったのもこのときであった。 橋本義則は、弁官の朝座が太政官に属する東の昌福堂・含章堂から離れた暉章堂にあることに着目しており、また、太政大臣・左右大臣の着座する東の昌福堂にたいし、正面から対峙するかたちで親王の朝座が西の延休堂に設けられていることから、そこに皇親政治の伝統との関連を指摘している。
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