推古朝の小墾田宮
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日本書紀によると603年(推古11年)、豊浦宮(とゆらのみや)で即位した推古女帝は新宮として小墾田宮を造営しここに居を移したという。国家権力の中心地として築造し、遷宮したと考えられる。第1回遣隋使に、政治が未開状態だと隋文帝に改革を訓令された失敗から、政治改革を実現し、その後に第2回遣隋使と、それによる隋使の来訪と歓待を意識した宮の新造だと指摘されている。 その後女帝が崩御するまでの間に、蘇我氏、聖徳太子らを中心として、603年(推古11年)冠位十二階の制定、604年(推古12年)十七条憲法の制定、607年(推古15年)第2回遣隋使派遣などの重要施策がこの宮で行われた。日本書紀の記述からこの宮の構造は、南に「南門」を構えその北に諸大夫の勤する「庁」が並ぶ「朝庭」が広がり、そのさらに北の大門を入ると女帝の住まう「大殿」が営まれていたことが推定される。これは後代の宮城において、朝堂院と大極殿および内裏に発展するものの原型と思われる。608年(推古16年)隋煬帝の勅使裴世清を迎えて、朝庭で隋国書の宣読と国書と国進物の進上儀式が行われた。数日後に宮で隋使饗宴が開催された(『日本書記』推古天皇16年4月-8月条)。 小墾田宮の所在地については奈良県高市郡明日香村豊浦(とようら)に「古宮」という小字名があることから、以前より有力地とされていた。1970年(昭和45年)に第1次調査、1973年(昭和48年)に第2次調査が行われた。その発掘調査では宮殿跡は見つからなかったが、7世紀初頭の掘立柱建物群、庭園・大溝などの遺構が見つかった。その後、淳仁・称徳朝の小治田宮が発見され(後述)、さらに1986年(昭和61年)6月に雷丘南麓の雷内畑遺跡(いかづちうちばたいせき)で、6世紀末から7世紀初めの苑池と石敷の一部分が発見され、これが推古朝の小墾田宮の比定候補地として注目されるようになり、この遺跡を「小墾田宮推定地」と呼ぶことが少なくない。
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