推古朝の小墾田宮とは? わかりやすく解説

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推古朝の小墾田宮

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/09 02:40 UTC 版)

小墾田宮」の記事における「推古朝の小墾田宮」の解説

日本書紀によると603年推古11年)、豊浦宮とゆらのみや)で即位した推古女帝新宮として小墾田宮造営しここに居を移したという。国家権力中心地として築造し、遷宮したと考えられる第1回遣隋使に、政治未開状態だと隋文帝改革訓令された失敗から、政治改革実現しその後第2回遣隋使と、それによる隋使の来訪歓待意識した宮の新造だと指摘されている。 その後女帝崩御するまでの間に、蘇我氏聖徳太子らを中心として、603年推古11年冠位十二階制定604年推古12年十七条憲法制定607年推古15年第2回遣隋使派遣などの重要施策がこの宮で行われた日本書紀の記述からこの宮の構造は、南に「南門」を構えその北に諸大夫の勤する「庁」が並ぶ「朝庭」が広がり、そのさらに北の大門を入ると女帝住まう大殿」が営まれていたことが推定される。これは後代宮城において、朝堂院大極殿および内裏発展するものの原型思われる608年推古16年隋煬帝勅使裴世清迎えて朝庭で隋国書の宣読と国書と国進物進上儀式が行われた。数日後に宮で隋使饗宴開催された(『日本書記推古天皇16年4月-8月条)。 小墾田宮所在地について奈良県高市郡明日香村豊浦(とようら)に「古宮」という小字名があることから、以前より有力地とされていた。1970年昭和45年)に第1次調査1973年昭和48年)に第2次調査が行われた。その発掘調査では宮殿跡は見つからなかったが、7世紀初頭掘立柱建物群、庭園大溝などの遺構見つかったその後淳仁・称徳朝の小治田宮発見され後述)、さらに1986年昭和61年6月雷丘南麓内畑遺跡いかづちうちばたいせき)で、6世紀末から7世紀初め苑池石敷一部分発見され、これが推古朝の小墾田宮の比定候補地として注目されるようになり、この遺跡を「小墾田宮推定地」と呼ぶことが少なくない

※この「推古朝の小墾田宮」の解説は、「小墾田宮」の解説の一部です。
「推古朝の小墾田宮」を含む「小墾田宮」の記事については、「小墾田宮」の概要を参照ください。

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