淳仁・称徳朝の小治田宮
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/09 02:40 UTC 版)
淳仁・称徳朝にあっては、両天皇の行宮として営まれた。760年(天平宝字4年)に淳仁天皇は播磨国など4か国の糒を小治田宮に蓄えさせ、同宮への行幸が実施された。天皇は翌年1月に平城宮に戻るものの、内裏には入らず武部(兵部省)曹司を御在所とした上、同年秋には保良宮に再度行幸していることから、当時実施されていた平城宮の改築工事と関連していると考えられている。 推古朝の小墾田宮との関係ははっきりしないが、1987年(昭和62年)7月、藤原京の南東端に近い雷丘東南の雷丘東方遺跡3次発掘で「小治田宮」と記す墨書土器破片が多数出土した。これは奈良時代の淳仁朝にかかわる墨書で、この付近に「小治田」の地名があり、天平年間末年から平安時代初期ころまでにかけての小治田宮があったことがかなり有力になってきている。
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