男性の元服
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/01 06:18 UTC 版)
おおよそ数え年で12 - 16歳の男子が(諸説あり)式において、氏神の社前で大人の服に改め、総角(角髪、みずら)と呼ばれる子供の髪型を改めて大人の髪(冠下の髻、かんむりしたのもとどり)を結い、冠親により冠をつける。元服以前は装束の袍は闕腋であるが、元服後は縫腋を着る。 武家の場合は烏帽子親(加冠)により烏帽子をつける(公家や平氏系の武家では厚化粧、引眉にお歯黒も付け、源氏系は付けない場合が多かった)。それまでの幼名を廃して元服名(諱)を新たに付ける。その際に烏帽子親の偏諱を受けることが多くなった。 元服の儀において、烏帽子を被せる役を「加冠」または「烏帽子親」と呼んだ他、童髪から成人用の髪に結い直す役を「理髪」、髪上げ道具及び切り落とした髪を収納するための箱を取り扱う役を「打乱(うちみだり)」、櫛で髪を整えるために用いる湯水を入れる器である泔坏を扱う役を「泔坏(ゆするつき)」と称した。 平安時代は、元服の儀は宮中や名家においては結婚と密接な関わりがあり、元服と同時に官位が授けられ、選ばれた女性と初夜を供にし(「副臥」)、その女性がそのまま正室となる事も多かったと考えられている。 烏帽子は、平安以降、次第に庶民にも普及し、鎌倉から室町前半にかけては被り物がないのを恥とする習慣が生まれた。烏帽子をかぶらないのは僧侶と貧民、流浪人の類だけであったという。 元服の儀そのものはまた、室町時代以降は民間にも普及した。元服をする年齢は幅があり、一般的には数え年15 - 21歳ぐらいであり、宮中では数え年12 - 18歳ぐらいであったとされる。一方、政略結婚や、戦国時代など家政の都合などから、数え年6 - 7歳ぐらいから元服する例もあった。一族始祖の元服年齢に合わせた氏族もあった。事例として伊達政宗は11歳、織田信長が13歳、徳川家康が14歳で元服している。実年齢は地方によっても大きく異なり、都、商都、村落共同体(農村、漁村など)によってまちまちであった。 戦国時代から武家を中心に髷姿が主流となり、江戸時代にかけて、公家を除き、武家や庶民の間では元服の時に烏帽子をつけず、前髪を剃って月代にすることだけで済ますようになった。 明治維新以降は、髷結いや公的な元服の制度は概ね廃れ、宮中、宗教、家制度、私的な領域の下、あるいはごく一部の地方でのみ見られるようになった。
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