子型の広まり
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/03/10 10:05 UTC 版)
平安時代初期、嵯峨天皇が、皇女への命名法を改めた。従来は乳母にちなんで名づけていたのを改め、佳字1字に「子」を付けた「○子」という子型の名を内親王に与えた。なおこれに対し、臣籍降下した皇女には姫型の名(○姫)を与えた。内親王へ子型の名を与える慣例は、現代にいたるまで続いている。 これをきっかけに平安時代以降、子型の女性名が貴族社会に広まり、平安後期には記録に残る全ての貴族の女性名が子型となるほどだった。 ただし、ここで言う子型の名とは、諱(実名)である。これは男性の元服に相当する裳着の時につけられる名で、幼少の頃は童名で呼ばれた。裳著の後も、当時は女性への実名敬避が強かったため、公文書を別にすれば、実際に子型の諱で呼ばれることはまずなく、さまざまな子型以外の名で呼ばれた。 子型の名は貴族だけだったとする記述もあるが、誤りである。実際には、貴族にやや遅れたものの、平民の間にも子型の名は広まった。ただし貴族と異なり、子型はいくつかある女性名の類型の1つにすぎなかった。
※この「子型の広まり」の解説は、「子 (人名)」の解説の一部です。
「子型の広まり」を含む「子 (人名)」の記事については、「子 (人名)」の概要を参照ください。
- 子型の広まりのページへのリンク