停年退職後
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2013年2月3日に日本相撲協会を停年(定年。以下同)退職。停年会見では現役時代について「十両に上がった時が一番うれしかった」と述懐しており「横綱(武蔵丸)を育てることができ、少しでも協会に恩返しできたかなという気持ち」とも言い残している。折しも自身の停年が、昭和の大横綱・大鵬(第48代横綱)が亡くなった時期(2013年1月19日逝去、享年72)と近く、協会員として最後の出勤場所となった2013年1月場所中の解説では、大鵬に対して哀悼の意を述べると共に思い出の取り組みとして、1970年7月場所の3日目、大鵬と初顔合わせを果たして勝利を収めた一番を挙げていた。「(大鵬は角界に)入った時からの大横綱。相撲を取れることだけで、前の晩から眠れないぐらい興奮していました」と回顧し「とにかく相撲を取れるだけで、心が躍っていました、少しでも長く(大鵬の)体に触っていたい、簡単に勝負をつけさせない、そんな気持ちで相撲を取りました」と懐かしんでいた。 年寄名跡・武蔵川を藤島部屋の部屋付き親方である3代大島親方(元横綱・武蔵丸)に譲渡して、自身は同年2月4日に相撲博物館の第6代館長に就任した。その後、15代武蔵川となった元武蔵丸は、藤島部屋から分家独立し、新たに武蔵川部屋を興した。部屋開きの際に14代武蔵川はかつての日々を思い起こして涙を流したが、14代武蔵川を怖い親方と見做していたかつての弟子の中には14代武蔵川が涙するところをその場で初めて見たという人物もいた。 2015年11月20日、大鵬と同じく昭和の大横綱・北の湖(第55代横綱)が62歳で逝去。翌2016年1月に「55代横綱北の湖敏満を偲んで」と題した展覧会が、相撲博物館で開かれた際には「最初は連合稽古だったかな。彼が三段目から幕下に上がる頃。すごいのがいると。すぐ強くなると思ったら、あっという間に追い越された。馬力もあった。左四つの型もあった…」と振り返るコメントを残し「私が最後に横綱になったんだけどね。ライバル意識が強かった。倒さなきゃ優勝できないんだから。そういう気持ちで頑張ってたなあ」と話していた。 2021年7月場所中に久々に報道上に登場。この場所で綱取りを懸ける照ノ富士の取組をテレビで見て「私とは比較にならない」と言い切り「落ちてここまで戻ってくる力士は今後出ないでしょう。まず大関から落ちて、序二段で取ることが考えられない」と不屈の精神に舌を巻いた。 部屋の後輩となる御嶽海が大関昇進を果たした際は「今場所(2022年1月場所)は非常に集中力を感じた。横綱になってもらいたい」と、1975年11月場所に大関昇進を果たした自身以来の大関昇進となる御嶽海にエールを送った。
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停年退職後
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/23 19:18 UTC 版)
2012年4月の停年退職後は大島部屋を旭天鵬に継承させる予定とされていたが、旭天鵬自身が「もう少し(現役を)続けたい」と現役続行の意思を固めたことから、3月場所後に停年を迎えた後、大島部屋を一旦閉鎖し、所属力士は全て友綱部屋へ移籍する形を採ることとなった。そのため大島部屋は、自身が同年4月24日付で停年退職するのと同時に消滅した。定年直後の5月場所では、友綱部屋に移籍した旭天鵬が西前頭7枚目の地位で、37歳の高齢ながらも初の幕内優勝を果たす。なお旭天鵬の優勝パレードには、自身もオープンカーの助手席に同乗(優勝旗手は同じ立浪一門で宮城野部屋の第69代横綱・白鵬が務めた)。元愛弟子の平幕優勝達成に「引退すると迷ったこともあったが、もう一回やる気持ちになってくれてよかった」と手放しで喜んでいた。2016年5月に行われた旭天鵬の引退相撲にも姿を見せ、元師匠として髷に鋏を入れた後にそのまま土俵上に残り、自身の停年後に旭天鵬の師匠となった友綱の止め鋏を見届け、その後で旭天鵬・友綱と並んで四方への挨拶も行った。なお、旭天鵬は引退後は、大島部屋の再興はせず、移籍先の師匠であった魁輝薫秀の停年を受けて友綱部屋を継承した。
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