停会で始まった第30議会とは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > ウィキペディア小見出し辞書 > 停会で始まった第30議会の意味・解説 

停会で始まった第30議会

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/01 05:21 UTC 版)

第30回帝国議会」の記事における「停会で始まった第30議会」の解説

第30回帝国議会は、1912年大正元年12月24日召集された。しかし、第3次桂内閣上述通りその3日前成立したばかりであった内閣側は、予算編成には7週間が必要であるとして、24日両院議長対し慣例である翌年1月20日までの年末年始休会2月5日まで延長することを要求し議会から拒否されたが、これは休会明け議会停会とすることの伏線となった結局帝国議会慣例どおり12月27日開会され、翌28日には全院委員長常任委員選出行ったのみで休会入った再開1月21日予定であった1912年8月内大臣侍従長になったばかりであった犬養毅によれば、これについては、山縣自分権勢宮中にまで及ぼそうとして送り込んだという見方と、が自らの権勢拡大のために自ら就任したという見方があり、後者場合には宮中から躍り出て内閣組織するか、あるいは寺内正毅組閣させて宮中から政治を操ろうとしたかという見方就任時にはとられていた。結果としては、宮中から躍り出て自ら組閣したかたちとなり、これは議会において、「宮中府中の別」をあからさまに破る人事であるとして非難の声があがった。特に立憲政友会尾崎行雄立憲国民党犬養毅らは第一次護憲運動波に乗る政府攻撃旗頭となり、実業家都市民衆ジャーナリストがこれを支持した第3次桂内閣メンバーは、従来日英同盟日露協約加えて日独連携強化し積極的な植民地経営展開したうえで、さらに財政再建への強い意欲をこめた革新的性格備えていた。陸軍大臣海軍大臣文官をあてることも検討していた。しかし、そのような改革的姿勢激昂し国民注目するところではなく国民の目からは、は二個師増設強行する山縣官僚陸軍同一にみえたのである桂太郎は自らの新党構想明るみ出れば世論矛先藩閥政友会向かい自身世論支持得られるものと楽観視していた。は、会期中の1913年大正2年1月20日新党組織計画発表し党名決定2月7日)、軍部大臣文官制の導入のほか、行財政整理推進政友会地方利益誘導政策是正)、「国防会議」による軍備拡張管理編制大権)の制度化政権掲げた。 そして、翌21日議会開会時、政友会内閣不信任決議案提出する機先を制して、15日間、議会停会にして、入党者を求めて他党政友会員、国民党院、藩閥系、貴族院議員)の切り崩しはかった。しかし、新党参加したのは加藤高明後藤新平若槻禮次郎入閣した新進官僚大浦兼武山縣官僚一部立憲国民党一部官僚系の中央倶楽部党員などであり、衆議院議員4分の1に満たなかった。

※この「停会で始まった第30議会」の解説は、「第30回帝国議会」の解説の一部です。
「停会で始まった第30議会」を含む「第30回帝国議会」の記事については、「第30回帝国議会」の概要を参照ください。

ウィキペディア小見出し辞書の「停会で始まった第30議会」の項目はプログラムで機械的に意味や本文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。 お問い合わせ



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「停会で始まった第30議会」の関連用語

1
第30回帝国議会 百科事典
12% |||||

停会で始まった第30議会のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



停会で始まった第30議会のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
Text is available under GNU Free Documentation License (GFDL).
Weblio辞書に掲載されている「ウィキペディア小見出し辞書」の記事は、Wikipediaの第30回帝国議会 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS