停会で始まった第30議会
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「第30回帝国議会」の記事における「停会で始まった第30議会」の解説
第30回帝国議会は、1912年(大正元年)12月24日に召集された。しかし、第3次桂内閣は上述の通り、その3日前に成立したばかりであった。内閣側は、予算編成には7週間が必要であるとして、24日、両院議長に対し慣例である翌年1月20日までの年末年始の休会を2月5日まで延長することを要求し、議会から拒否されたが、これは休会明けの議会を停会とすることの伏線となった。結局、帝国議会は慣例どおり12月27日に開会され、翌28日には全院委員長・常任委員の選出を行ったのみで休会に入った。再開は1月21日の予定であった。 桂は1912年8月に内大臣兼侍従長になったばかりであった。犬養毅によれば、これについては、山縣が自分の権勢を宮中にまで及ぼそうとして桂を送り込んだという見方と、桂が自らの権勢拡大のために自ら就任したという見方があり、後者の場合には宮中から躍り出て内閣を組織するか、あるいは寺内正毅に組閣させて宮中から政治を操ろうとしたかという見方が就任時にはとられていた。結果としては、宮中から躍り出て自ら組閣したかたちとなり、これは議会において、「宮中・府中の別」をあからさまに破る人事であるとして非難の声があがった。特に立憲政友会の尾崎行雄や立憲国民党の犬養毅らは第一次護憲運動の波に乗る政府攻撃の旗頭となり、実業家・都市民衆・ジャーナリストがこれを支持した。第3次桂内閣のメンバーは、従来の日英同盟・日露協約に加えて日独の連携を強化し、積極的な植民地経営を展開したうえで、さらに財政再建への強い意欲をこめた革新的性格を備えていた。桂は陸軍大臣・海軍大臣に文官をあてることも検討していた。しかし、そのような改革的姿勢は激昂した国民の注目するところではなく、国民の目からは、桂は二個師増設を強行する山縣系官僚・陸軍と同一にみえたのである。 桂太郎は自らの新党構想が明るみに出れば、世論の矛先は藩閥や政友会に向かい、自身は世論の支持を得られるものと楽観視していた。桂は、会期中の1913年(大正2年)1月20日、新党組織の計画を発表し(党名決定は2月7日)、軍部大臣文官制の導入のほか、行財政整理の推進(政友会の地方利益誘導政策の是正)、「国防会議」による軍備拡張額管理(編制大権)の制度化を政権に掲げた。 そして、翌21日の議会開会時、政友会が内閣不信任決議案を提出する機先を制して、15日間、議会を停会にして、入党者を求めて他党(政友会員、国民党院、藩閥系、貴族院議員)の切り崩しをはかった。しかし、新党に参加したのは加藤高明・後藤新平・若槻禮次郎ら入閣した新進官僚、大浦兼武ら山縣系官僚の一部、立憲国民党の一部、官僚系の中央倶楽部党員などであり、衆議院議員の4分の1に満たなかった。
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