偕行社『南京戦史』
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「南京事件論争史」の記事における「偕行社『南京戦史』」の解説
一方、陸軍士官学校卒業生の親睦団体である偕行社は、「一般に定説になりつつある20万、30万という数字を破砕する」ため南京事件を取り上げることを決め、機関紙『偕行』の1983年10月号と11月号で関連情報の提供や協力を呼びかけた。1984年4月号から1985年2月号まで畝本正巳による「証言による南京戦史」が11回に渡り連載される過程で、角良晴の証言など不法行為を示す多くの証言が集まった。1985年3月号の「証言による南京戦史 (最終回) その総括的考察」において、編集部を代表して加登川幸太郎が「一万三千人はもちろん、少なくとも三千人とは途方もなく大きな数である。日本軍がシロではないだろうと覚悟しつつも、この戦史の修史作業を始めてきたわれわれだが、この膨大な数字を前にしては暗然たらざるを得ない。戦場の実相がいかようであれ、戦場心理がどうであろうが、この大量処理には弁明の言葉がない、旧日本軍の縁につながる者として、中国人民に深く詫びるしかない」と記した。しかし、この謝罪について偕行社内で反発が起き、1989年に刊行された『南京戦史』では「不法殺害とはいえぬが」「捕虜、敗残兵、便衣兵のうち中国人兵士約1万6千、民間人死者15,760人と推定した。編集には板倉由明も参加した。秦郁彦は 偕行社『南京戦史』を(30万の大虐殺は認めないが捕虜等の殺害を認めたという意味で)「中間派」とした。
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