相撲関連
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/30 10:08 UTC 版)
入門を決めたきっかけとなった巡業で見かけた千代ノ山雅信に関しては、入門前に故郷で映画「三太と千代の山」を見て知り、実際に出会った際は映画スターと接するような気分だったという。稽古で胸を出してもらった際の思い出として、「私も千代(ノ山)関の胸にぶつかったことが2~3回ありましたよ。ガツンと硬い壁にぶつかる感じで、あっという間に吹き飛ばされたと思いますが、あの筋骨隆々の体に触れられただけでも光栄でした」と後に述懐していた。 入門の時期については最良だったと判断しており、後のインタビューでは「もし、私が須藤君のように中学を卒業してすぐに入門していたら、大関になれたかというと、たぶん無理だったでしょう。身体の出来ていない私が15歳で入門したら、あちこちケガをして、大関どころか十両にも上がれなかったと思います。高校に入って、ある程度体の基礎ができて相撲の経験も多少あったからこそ、順調な出世ができたのだと思っています。私は入門の時期というものも、相撲人生を左右することがあると思います」とコメントしていた。 1963年3月場所中、同じ小兵同士という縁で吉田義男(阪神タイガース)と対談を行い、栃ノ海は若手時代にキャッチボールをやっては何度も部屋近くの民家のガラスを割り、春日野に怒られたことなどを話した。 2人目の師匠・栃錦のライバルであった若乃花幹士とは同郷で偶然にも名字が一致していることから巡業で目を付けられることが多く、これは初めての上位総当たり戦を目前とした時期から始まった。本人は、土俵に上がると若乃花の顔を直視できないほどの恐怖心を刷り込まれた一方、「横綱が威厳を示すにはあれくらいしなければならない」とも受け止めていた。このかわいがりが功を奏したのか、若乃花が引退した1962年5月場所に幕内最高優勝を果たして大関昇進を決めたが、本人はこれについて「人生とは何が起こるかわからないものです。大関に上がった時でさえ102キロ。こんな小兵な私が大関に昇進できたのです。」と振り返っていた。 横綱時代には相当なプレッシャーを感じており、本場所が近づくにつれて体重が減少、夜はアルコールを飲まないと眠れない、というなどの苦労を覚えていた。現役時代はただ苦しいとばかり感じていたそうであり、現役時代に「ああ、よかったなあ」と思ったのは3回優勝したその晩のみだったと答えている。横綱時代はプレッシャーでまともに睡眠を取ることができなかった。1966年11月場所7日目の引退発表後、横綱の地位から解放されたこともあって2日間眠り続けたという。 三賞獲得歴は敢闘賞1回、技能賞6回だったが、殊勲賞は獲得できなかった。ライバルだった大鵬幸喜も同様だったが、栃ノ海以降の横綱は第73代・照ノ富士春雄まで全員が殊勲賞を獲得している。 若乃花勝と同年齢の長男・康行も春日野部屋へ1986年(昭和61年)3月に入門し、「日の出海」という四股名で「栃ノ海2世」を目指したが、序二段4枚目が最高位で関取になれずに廃業した。力士生活は5年ほどで101勝105敗11休であった。なお、若乃花は当初、日の出海の入門に触発され、中学卒業後に角界入りを志したが「他人のマネはダメだ」と言う親方の一言で高校に進学、2年後に弟・貴花田の中学卒業と同時に、高校を中退して入門した。日の出海が廃業する頃には既に幕内上位に定着していた。 停年退職後、横綱・白鵬翔の独走が続いている状況を見て「元気な横綱が2、3人おって、競い合うようになれば一番理想的ですよね。そうは言っても昇進の基準を甘くして、私みたいな横綱ができたらまたそれはかわいそうだし、やっぱりいいものを作ろうと思えば、吟味しないといけないわけですから」と複雑そうに話していたことがある。
※この「相撲関連」の解説は、「栃ノ海晃嘉」の解説の一部です。
「相撲関連」を含む「栃ノ海晃嘉」の記事については、「栃ノ海晃嘉」の概要を参照ください。
相撲関連
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/07 17:03 UTC 版)
2016年の夏巡業から2017年春巡業まで、兄弟で初切を担当していた。2018年3月場所にて自身が新十両に昇進したため、先に関取となっていた貴源治と合わせて、史上19組目の兄弟関取となった。その中で、双子は初の事例であった。 十両昇進に際して、化粧廻しは龍神総宮社、小山市出身力士を応援する会、後援会の会社から各1本を贈呈されている。その内、小山市出身力士を応援する会が贈呈した化粧廻しは、貴源治のもとの合わせると1枚の絵になるデザインとなっている。 「初切を担当した者は大成しない」というジンクスがあるが、共に初切を務めていた貴源治と兄弟揃って関取への昇進を果たしたのでこのジンクスが払拭されたものの、別々の経緯ながら個々人がそれぞれ不祥事を起こして角界を去っている(貴ノ富士は引退処分、貴源治は解雇処分)。遵って、いずれも志半ばで辞めたため、関取昇進後にジンクスが発動された形となっている。
※この「相撲関連」の解説は、「スダリオ剛」の解説の一部です。
「相撲関連」を含む「スダリオ剛」の記事については、「スダリオ剛」の概要を参照ください。
相撲関連
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/09 15:00 UTC 版)
尊敬する力士は琴富士孝也だったが、その理由は「ギャグとカラオケのレパートリーが多いから」とのこと。琴富士を「師匠」とまで呼んでいた。 貴ノ浪の強心臓ぶりは有名で、貴ノ浪が自身初の幕内最高優勝を果たした1996年1月場所9日目に行われた同じ二子山部屋の兄弟子・貴闘力忠茂 - 土佐ノ海敏生戦にて、通常は審判委員がつける物言いを貴ノ浪自らが審判委員より素早く手を挙げ、控え力士の立場から物言いを付けたことがある。控え力士には出番を待つだけでなく土俵上の相撲を監察する義務もあり、物言いをつける権利もあるが、土俵上での判定協議には参加出来ない。この際の軍配は土佐ノ海に上がったが、行司差し違いで貴闘力が勝利した。貴ノ浪の優勝パレードの旗手は、その物言いで勝利した貴闘力が務めていた。 身長は公称196cmだが、本人曰く実際は2mあったという。しかし「2mなんて怪物みたいで嫌だから」という理由で、身長測定の際に姿勢で誤魔化して196cmとしていた。 取組中、土俵上に落ちたさがりを足で蹴飛ばしたことがある。 現行の年6場所制定着(1958年)以降の大関の中で唯一、所属部屋が合計3つを数える力士である(藤島→二子山→貴乃花)。ただし2回の所属部屋変更はいずれも「看板替え」で、藤島部屋から二子山部屋への所属変更も逆さ合併の形をとった看板替えであった。そのため、部屋(施設)の移転は経験していない。 元関脇・若の里には5勝13敗と負け越しているが、元大関・雅山には13勝5敗と勝ち越している。若の里とは貴ノ浪の大関時代に2度対戦して2戦2勝だったが、大関陥落後は3勝13敗と大きく負け越している。雅山には貴ノ浪の大関時代は4勝2敗、雅山の大関時代も6勝1敗と勝ち越している。
※この「相撲関連」の解説は、「貴ノ浪貞博」の解説の一部です。
「相撲関連」を含む「貴ノ浪貞博」の記事については、「貴ノ浪貞博」の概要を参照ください。
相撲関連
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/08 14:28 UTC 版)
北の湖は魁傑の急死に際して「現役時代は2本差すのがうまく、渋い相撲を取る人だった。私も何回もいいところで負けた。優勝決定戦で負けたこともある。大関に返り咲いたのも、できないことをやってのけた。頭が下がるところです」と現役当時を追憶し、その底力を称賛していた。 八百長問題が発覚した2011年2月2日、理事長時代の魁傑は真っ先に事務方トップの主事を呼んで計算させ「現金と換金可能有価証券残高は、全部でいくらだ。何場所、中止できる?」と問い、1年間中止しても協会は何とか存続できると聞いて後に実際に取った方針を固めたという。こうした問題解決に際して独特の力士社会に生きる親方衆や関取衆の猛反発を受け、さらには同じ理事会の出席者に「あんた」呼ばわりされる経験もしたとも伝わっている。また、八百長力士の裁判では「何の根拠も無しに八百長と決めつけられた」等と言った証言も飛び出し、親方衆や力士たちから反発された。理事長時代の苦労を物語るエピソードとして生前本人が「親方衆とゴルフに行く夢を見たんだがね、中からみんなの声がするのに、入り口が見つからず、私だけ入れないんだ。夢の中でも孤立しとるなあ」と語ったことがある。 理事長職を降りて2ヶ月が経過した2012年の春、天皇・皇后主催の園遊会に誘われた際に、理事長時代の自身の判断を認めてもらったことで「冥利に尽きる」と当時発揮した手腕に自信を持つことができ、親方衆の無理解を二度とぼやかなかったという。 内弟子第1号となった大乃国をスカウトした時、「高校卒業してから相撲取りになって年下のやつに張り倒されるよりは、十五歳で入って先輩から張り倒される方が、まだ我慢できるだろ。」と説得した。背景として大学中退で角界入りして年下の先輩との関係に当惑した自身の経験が影響している。 1988年11月場所千秋楽前夜の食事の席で、同場所14日目まで53連勝中だった千代の富士との対戦を控えた弟子の大乃国に、「どうせ今のお前じゃ何をやっても勝てないんだから、(千代の富士を)ヒヤッとさせる場面ぐらいは作って来いよ」と言う。奮起した大乃国は結果的に昭和時代最後となった結びの大一番で、同場所14日目まで53連勝中だった千代の富士を怒涛の寄り倒しで54連勝目を阻止した。のちに放駒が、千秋楽で大乃国が千代の富士の連勝を止められなければ、翌年初場所千秋楽で横綱・双葉山の69連勝に並ぶと計算していたことを知り、大乃国は引退後に「師匠のその思いを知ったら震えて負けていたかもしれない。師匠は先の先を読んでいたんです」と歴史的一番の裏にあった師弟の秘話を明かした。 八百長問題で揺れていた時期に、親方衆主導の運営形態のなか、裏方の事務職員たちに、「相撲協会の今後のために、何か新しい考えや企画があったら、どんどん出してほしい」と、現場の声を細かに掬った。この行動が、現在のツイッターやフェイスブックなどSNSを利用した広報活動や、数々のイベント開催などで結実し、新しいファン層を開拓するに至る種まきとなった。 2012年初場所9日目の理事長懇談会に、日本雑誌協会の幹部が一堂に会した。この場所限りで退任となる放駒理事長に対して、広報部副部長時代から、雑誌協会と当時の理事長(出羽海、時津風、北の湖)との間に入って、便宜を図ってくれたことに、最後の機会に御礼を申し上げたいとOBも含めて集まり、放駒理事長へ感謝の言葉を伝えた。 八百長問題の中で理事長職を務めた時期には体力を消耗し、2011年6月に東日本大震災を見舞う東北巡業を行った際にはまともに歩けない状態だった。死去の際にはかつての弟弟子であった峰崎から「理事長就任後は体が曲がってかわいそうだった」とコメントが寄せられた。
※この「相撲関連」の解説は、「魁傑將晃」の解説の一部です。
「相撲関連」を含む「魁傑將晃」の記事については、「魁傑將晃」の概要を参照ください。
相撲関連
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/15 22:19 UTC 版)
玉鷲を苦手としており、これまでの対戦成績は2勝14敗と大きく差をつけられている。2013年11月場所10日目に対戦した際には、物言いの末に取り直しとなり、取り直しの一番では寄り切られて敗れてしまい、支度部屋で風呂から上がった後のインタビューで臥牙丸は顔を真っ赤にして涙を流しながら「勝ちたかった。マジで。なんで玉鷲はオレだけに強いの。(取り直し後の一番では)絶対に押し出してやろうと思ったけど。これ以上、どう相撲取ればいいか分からない」と嘆いた。但し、普段は玉鷲との仲は良い。 かつては、臥牙丸がお気に入りのチョコレート色の派手な廻しを締めていた。 2014年3月場所、正確に言えば同年2月の花相撲から横綱白鵬の土俵入りに協力している。本来は横綱と同じ部屋ないしは同じ一門の力士が務める慣例があり、一門が違う力士(白鵬は伊勢ヶ濱一門、臥牙丸は出羽海一門)が務めるのは極めて異例のことであるが、諸事情があり白鵬の太刀持ち・露払い共に交代せざるを得なくなってしまい、伊勢ヶ濱一門に適任者がいなくなってしまったところに自ら志願したようである。現在も、白鵬の太刀持ちや露払いが何らかの事情で務められなくなると、代打を任されることがある。ちなみに、同郷の先輩の黒海も現役時代は白鵬の露払いを務めていた。 ジョージアのヨーグルトを再現した「ジョージアヨーグルト」を代表的な商品とする中沢乳業から化粧廻しを贈られている。
※この「相撲関連」の解説は、「臥牙丸勝」の解説の一部です。
「相撲関連」を含む「臥牙丸勝」の記事については、「臥牙丸勝」の概要を参照ください。
相撲関連
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/22 10:12 UTC 版)
金沢巡業では同じ石川県鳳珠郡出身の丹蔵(こちらは能登町)と共に人気を集める存在である。 2014年1月場所13日目にこの場所の10勝目を挙げたことで初土俵から6場所目に初めての幕内2ケタ白星の記録を達成した。年6場所制では35年ぶり3人目の最速タイ記録である。 2014年1月場所では優勝した横綱・白鵬の旗持ちで初めてオープンカーに乗っている。旗持ちになった理由は白鵬と遠藤の所属部屋が伊勢ヶ濱一門の所属だったためである。 2014年1月30日、4月12日に行われる春巡業「大相撲ぐんま場所」のPRのため、2月7日に群馬県前橋市に出向いた。遠藤は群馬とは縁もゆかりもないが、協会関係者は「巡業をPRするために指名されたということでしょう。人気力士ですから」と説明した。ご当地力士以外が事前に巡業先で宣伝活動するのは異例。 2014年3月場所8日目、東前頭11枚目の地位で初日から7連勝中だった大砂嵐と対戦。当時東前頭筆頭の遠藤は通常なら幕内中堅の好調な力士との対戦から組むのだが、鏡山審判部長(元関脇・多賀竜)は「8日目だからサービスだよ」と意図を説明した。 巡業でも休む間が無いほど出番が多く、ファンサービスに追われて体調を崩したこともある。2014年8月12日の夏巡業秋田場所では午前中のサイン会から帰ってくると尾車巡業部長(元大関・琴風)に吐き気がすることを伝え、午後の土俵入りや取組は予定通りに行ったものの土俵での稽古を見送った。尾車はこれについて「無理をさせるとケガのもとになる。(サイン会は)毎日だから疲れも出たのだろう」と説明。その上で「人気者の宿命だが、何かあると遠藤が呼ばれる状況を秋の巡業では改善しないと」とファンサービスを緩和させる方針を示した。 小学生時代に通った「穴水少年相撲教室」は一時存続が危ぶまれていたといい、創設された1970年代前半には30人の門下生を抱えていたものの遠藤が在籍していた2000年前後には3人まで減少していたこともある。それでも出身者の遠藤が絶大な人気を集めたことで2014年の春には3人の入門者に恵まれた。一度に3人も入門するのは、十数年ぶりだという。 2015年9月場所6日目、対前頭8枚目豪風戦勝利のおり、解説の北の富士が遠藤の四股名について「三役昇進を果たした際には(当時一部報道で襲名も噂されていた)追手風部屋ゆかりの『清水川(元大関)』という素晴らしい四股名をぜひ名乗ってもらいたいね」と願望した。 左膝を慢性的に故障しているが、サポーターなどは一切巻かない。これについて本人は「最初はバンテージみたいなものをつけていたんですが、まあ、意味がないんです。気休めにしか感じなかったんですね。正直、邪魔でした。テーピングすることによってできないことができるようになるわけじゃないし」と語っている。膝の具合に関しても、記者から「膝の手術をすれば良かったと思ったことはないのか」と聞かれると「好きで怪我しているわけではないので…自分から体にメスを入れることを許したくない」と言い切った。ただし、引退したら手術するつもりであるという。 2015年2月2日に行われた相撲協会の健康診断で握力を測定したところ、記録は60㎏。前日は午後9時以降食事禁止の制限がかかっており「ご飯食ってたらもっと上がるんだけどなぁ」と苦笑いした。 2017年7月場所終了後の記事によると、出待ち対策のために場所入りの際は通常とは異なる場所から出入りしている。 2018年5月26日付で、年寄名跡「北陣」を継承(取得)した。 2018年11月場所直前にKITTE博多で行われたトークショーでは、本名四股名で取り続けることについて「今は大人の事情」と見解を示した。 2020年7月場所初日の鶴竜戦の金星(勝負結果は鶴竜の腰砕け)は令和2年7月豪雨の被害に遭った日大時代の同級生と「元気を届けられるような相撲を取る」と約束した上で獲得したものであった。 2020年末に日本相撲協会公式YouTubeチャンネルが公開した動画の企画で握力測定をしたところ、右手で76㎏を記録した。この日の時点では自己ベスト。 2021年5月場所11日目、土俵下で控えていた際に一時的に足を投げ出したことから、北の富士勝昭から作法面、安全面で苦言を呈された。 2021年5月場所13日目、大関貴景勝を突き落としで破ったあと、NHKのインタビュールームで「相手が大関とかじゃなく、きょうはちょっとどうしても勝ちたかったので勝てて良かった」「分かる人には分かるので本当に勝てて良かった」と話した。その日は長く付け人を務めていた兄弟子の大翔龍が最後の取組をしており、遠藤のそばでその言葉を聞いて涙していたという。
※この「相撲関連」の解説は、「遠藤聖大」の解説の一部です。
「相撲関連」を含む「遠藤聖大」の記事については、「遠藤聖大」の概要を参照ください。
相撲関連
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/14 09:14 UTC 版)
「若乃花幹士 (初代)」の記事における「相撲関連」の解説
入門当時は敗戦直後の混乱の中で相撲人気が大きく衰えた時期であり、相撲協会は旧両国国技館をGHQに接収され興行も各地を転々として行われた。1947年6月場所は明治神宮外苑で行われたが、そのとき隣の明治神宮野球場で開催された学生野球の方に客が集まるのを見て以来、「野球は商売敵」と言って、頑として野球はやらなかったという。 小坂秀二が慶大のアメリカン・フットボール部で名が知られていたTBSの新入社員を連れて若乃花の稽古を見せたところ、途中でいなくなってしまった。小坂がサボっていると思い叱ろうとしたら、アメリカン・フットボールで相当きつい練習をこなしてきた新入社員が、若乃花の稽古があまりの激しいので見ていられなくなり外に出てしまったという。 引退会見の時、NHKアナウンサーから「横綱のあの豪快な上手投げとか呼び戻しが見られないっていうと本当に寂しいんですけどもねぇ」と訊かれ、「まぁ、そのうちにまた出て来ますよ、そういう人が」と答えたが、この時、タバコを吸いながら会見に応じていた。 若乃花引退相撲の際に、呼び出しの永男が作った相撲甚句『若乃花一代記』が反響を呼び、これ以後、各地の好角家による相撲甚句愛好の動きが全国に広がっていったことが語られている。 若乃花が日本相撲協会の健康保険組合理事長を務めていた当時、現役最強横綱と云われた玉の海正洋(片男波)が虫垂炎の手術の際に出来た肺血栓が基で亡くなった。それを受けて相撲診療所医師の林盈六が「力士の健康診断に血液検査を追加するべき」と若乃花に直訴し、若乃花もそれを認めて力士の健康診断メニューに血液検査が追加された。 若乃花幹士 (2代)が第56代横綱昇進の使者を迎える時、一階の広間でなく、二階の部屋で迎えた。報道陣は不思議がったが、使者が帰った時に「勝雄も見てくれたかな。」と呟いた。その部屋はちゃんこ鍋による火傷で亡くなった長男の位牌が置いてあった部屋だった。 1991年秋頃に年寄衆と関取衆全員による緊急会議を開き、そこで「無気力相撲」に対する警告を行った。当時監察委員長の役職を務めていた出羽海に至っては金銭のやり取りにも言及していた。また、1989年9月の力士会会合を録音したテープによって、日本相撲協会事務局長(当時)の森島信一が「無気力、いわゆる八百長という言葉で一般的には言っていますが」と発言した事実が明らかとなった。このことから当時より角界内部では「無気力相撲は八百長である」という見解を持っていたとも解釈できる。2011年2月12日のNHKスペシャルでは概ね「無気力相撲は敢闘精神に欠けた怠慢な相撲、八百長は事前に申し合わせた不正な相撲」という見解が出された。 現役時代のライバルである栃錦清隆の弟子である舛田山靖仁は栃錦が死去してから、千賀ノ浦部屋を創設しているが、舛田山が停年を迎えてから部屋を継承(2020年12月に常盤山部屋と改称した)したのは初代若乃花の弟子である隆三杉太一であり、舛田山の師匠時代から在籍している弟子は栃若両方の孫弟子という珍しい師弟関係となった。 栃錦の弟子とのエピソードでは他に栃乃和歌清隆が四股名をつける際に師匠(栃錦)は自分の四股名と出身地和歌山から「栃和歌」を考えたがこれでは「栃若時代」と同じ音でまずいのではないかと悩んでいた。それを知って助けたのは当時事業部長として理事長であった栃錦の補佐役でもあった、他ならぬ若乃花(当時の二子山親方)であり「だったらワシの四股名から乃をやるよ」という助言で栃乃和歌となった。 栃錦が春日野部屋を継承した当初の栃錦の弟子である栃ノ海晃嘉は自身とは同郷で偶然にも苗字が一致していることから巡業で目を付けられることが多く、これは初の上位総当たり戦を目前とした時期から始まったという。本人は土俵に上がると若乃花の顔を直視できないほど恐怖心を刷り込まれた一方で横綱が威厳を示すにはあれぐらいしなければならないとも受け止めていた。このかわいがりが功を奏したのか、若乃花が引退した1962年5月場所に優勝を果たして大関昇進を射止めた。栃ノ海はこれについて「人生とは何が起こるかわからないものです。大関に上がった時でさえ102キロ。こんな小兵な私が大関に昇進できたのです。」と振り返っていた。
※この「相撲関連」の解説は、「若乃花幹士 (初代)」の解説の一部です。
「相撲関連」を含む「若乃花幹士 (初代)」の記事については、「若乃花幹士 (初代)」の概要を参照ください。
- 相撲関連のページへのリンク