関取昇進後
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新十両として迎えた9月場所も勢いは止まらず千秋楽に鏡桜に勝って12勝3敗で鏡桜と相星となり、優勝決定戦でも鏡桜を破り十両優勝を果たした。前場所に遠藤が新十両優勝を果たしており、2011年11月場所の勢、2012年1月場所の千代大龍以来3度目の2場所連続新十両力士の優勝が記録された。翌11月場所は8日目の大道戦では組み合った状態から鼻血が出て「行司待った」が懸かるハプニングも起こった(この取組の結果は上手投げで勝利)。2014年1月場所は西十両筆頭で12勝3敗の好成績を挙げ、翌3月場所で新入幕を果たした。その3月場所は9日目に7敗目を喫したがそれ以降6連勝して8勝7敗と勝ち越した。5月場所は、場所前に蜂窩織炎を患い初日の朝に退院するという苦しい状況 だったが、9勝6敗とまたしても勝ち越した。三役目前となる東前頭筆頭まで最高位を更新した同年9月場所は、初日の大関琴奨菊戦で自ら「あり得ないですよね」と意外性を認める立合い変化を行い、大関戦初挑戦にして白星を挙げる。取組直後に「今までやってなかったから、一度やってみたかった」と語っていた一方で「相手が食っても食わなくても親方には怒られる」とも心配していた。しかし2日目から6連敗とその後は振るわず場所成績は6勝9敗の負け越しに終わった。 2015年1月場所は東前頭2枚目で8勝7敗となり、敢闘賞の候補となり異例の再投票の結果、自身初の三賞となる敢闘賞を受賞した。 翌3月場所は新三役、小結の地位を通り越して関脇昇進を果たす。モンゴルからの新三役(関脇)は、2014年11月場所の逸ノ城以来。初土俵以来所要23場所で新関脇は、1958年以降初土俵(幕下付け出しを除く)としては9位のスピード昇進となった。新関脇の3月場所は初日から7連勝し、13日目にはそれまで36連勝だった横綱の白鵬を破るなど13勝2敗で殊勲賞、敢闘賞を受賞した。新関脇での13勝は史上最多タイ記録で、過去には1940年5月場所の五ツ嶌、1950年9月場所の吉葉山、2005年9月場所の琴欧州がいる。 翌5月場所では12勝3敗で初の幕内最高優勝(平成生まれ初の優勝)を果たし、5月27日の番付編成会議および理事会において、満場一致で平成生まれ初の大関が誕生した。但し審判委員の一部には「大関昇進の3場所前は平幕の地位が引っ掛かる」「慌てて上げる必要は無い。もう一場所待つべきでは」との声もあったが、「直前場所での優勝は大きい」と北の湖理事長らが重視した結果、最終的に新大関への異論は出ずに決定する。なお、三役2場所での大関昇進は年6場所制になった1958年以降では初めて。年6場所以前では1951年1月場所後に大関昇進の吉葉山以来64年ぶりとなった。
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関取昇進後
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新十両の2011年9月場所は、西12枚目の地位で序盤いきなりの4連敗のスタートとなったが、中日から7連勝するなどして9勝6敗で勝ち越した。2012年3月場所で自己最高位の西筆頭まで番付をあげ、幕内昇進を狙ったが6勝9敗で十両昇進後初の負け越しを喫する。続く5月場所は序盤3連勝のスタートを切ったが、6日目の宝富士戦で敗れて土俵下に転落した際に右膝を負傷して翌日より休場し、11日目から再出場したが5勝に終わった。7月場所、9月場所は勝ち越し、10月23日には出身地・小豆島で27年ぶりに開催された巡業に参加した。東十両3枚目まで番付を上げて迎えた11月場所は、前半戦を1勝6敗と不調だったが、中日から盛り返して8連勝で9勝6敗の勝ち越し。場所後に香川県出身力士として1958年11月場所の若三杉彰晃(後の大豪)以来戦後4人目となる幕内昇進が決定した。
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関取昇進後
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/07 08:38 UTC 版)
関取に昇進した3月場所は9勝6敗と勝ち越した。11月場所で怪我により休場するも、翌2013年1月場所から2場所連続で二桁勝利を挙げ、5月場所での新入幕を果たした。鹿児島県からの新入幕は、2010年9月場所の旭南海以来戦後20人目。新入幕の場所は6勝9敗と負け越して跳ね返された。11月場所では13勝2敗の好成績で十両優勝を果たした。翌2014年1月場所で再入幕を果たし、10勝5敗の好成績で締め括った。翌3月場所は自己最高位を東前頭5枚目まで更新、その場所は9勝6敗の勝ち越しを決め、翌5月場所の番付には西小結の地位に名前が載り、この場所の幕内最年少にして新三役という立場となった。九重部屋からの新三役は1999年7月場所に西小結に昇進した千代天山以来約15年ぶりである。鹿児島県からの新三役は、1992年9月場所の旭道山以来戦後8人目。志布志市からは史上2人目の新三役(旧志布志町出身の陣岳を史上初とした場合)。昇進の折のインタビューでは、上述の火事について言及し「土地、新居込みで2千万円。まず半分はオレが準備して、そして残りは兄がチョコチョコとローンを組んで払う予定です」とその計画を語った。新三役の場所はこの場所新横綱の鶴竜に圧勝したものの5勝10敗と大きく負け越し、上位の壁に跳ね返された。2015年1月場所2日目、インフルエンザのために休場し、隠岐の海戦は不戦敗となり、5日目から再出場し10日目の常幸龍戦では、常幸龍の休場で不戦勝を得た。3月場所では11勝4敗の好成績を上げるものの、敢闘賞をかけた千秋楽の逸ノ城戦で左膝を負傷し、翌5月場所は2日目から休場した。7月場所で十両に陥落するも1場所で幕内に復帰し、11月場所で10勝5敗と4場所ぶりの二桁勝利を記録した。2016年1月場所初日の御嶽海戦で再び左脚を負傷して2日目より休場し、6日目から再出場した。この場所の阿夢露戦は不戦敗となるが、5月場所2日目では阿夢露の休場により不戦勝を得た。2016年8月には師匠の13代九重の逝去により部屋付きの佐ノ山が14代九重を襲名。13代九重の死去に際しては「(亡きがらが)今にも起き上がってきそう。頑張って来いと言われている気がする。もう一度、三役に上がって“親孝行”したい」と沈痛な表情を浮かべながらコメントを述べていた。しかしその後は勝ち越しに恵まれず、2017年3月場所は6日目の豊響戦で叩き込まれた際に負傷、日本相撲協会に「右肩関節脱臼で2週間の安静が必要」との診断書を提出して7日目から休場。同年11月場所は「右肩脱臼、左膝前十字靱帯損傷で約1ヶ月間の加療を要する見込み」という10月30日付の診断書を提出して全休した。9月場所後に手術を受けており、この全休によって35場所務めた関取の地位から陥落。翌2018年1月場所も全休し、翌3月場所から幕下下位で復帰したものの、負傷の影響は否めず3勝4敗と負け越し、翌5月場所では元三役としては史上7人目となる三段目陥落を余儀なくされたが、平成28年7月場所以来、11場所ぶりの勝ち越しを記録した。2019年には徐々に番付を回復し、西幕下筆頭の地位で土俵に上がった11月場所では2番相撲までの連敗の後、3番相撲からの4連勝で勝ち越しを決め、4勝3敗で場所を終えた。場所後に再十両を果たし、13場所ぶりに関取の地位に復帰する格好となった。三役以上経験者が三段目以下に陥落してから十両に復帰する事例はこの場所で同時に再十両を達成した照ノ富士を含めて常幸龍以来3人目。場所中の報道によると右肩の回復具合は「6割程度」とのことであり、千代鳳は「早く千代丸に追いつきたい。幕内を見ていると、同年代が頑張っている。早くそこにいきたい」と意欲を語っていた。 2021年1月場所は、場所直前に自身が新型コロナウイルスに感染していることが判明したため全休した。翌3月場所の番付は事情が考慮されて、全休ながら1枚降下に留まったものの、4勝11敗と大敗。翌5月場所は左肩の負傷で1勝もできないまま途中休場し、続く7月場所で幕下に陥落。陥落3場所目の11月場所を1勝6敗で取り終えた後、同場所14日目(11月27日)に現役引退が日本相撲協会から発表された。引退後は年寄・佐ノ山を襲名した。29歳での引退となる。28日の引退会見では11月場所の番付発表後に腰痛で稽古にならなかったことから引退を決意したことを明かし、思い出の一番として2014年5月場所7日目の鶴竜戦での白星を挙げた。取組以外を含めた現役時代の思い出として入門直後に膝の手術で入院した際に兄の千代丸が入院中毎日夜のちゃんこを弁当に詰めて自転車で入院先に送ってくれたことを話し、全盛期の自分のように叩かれても落ちないコツを後進に教えたいと指導者としての抱負を語った。なお、2016年8月に20代佐ノ山が14代九重を襲名したことに伴い、空き株になった佐ノ山の名跡を取得したとなっていたが、この襲名の際に実際は取得していなかったことが判明した。
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