関取昇進以後とは? わかりやすく解説

関取昇進以後

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/25 03:48 UTC 版)

琴ヶ濱貞雄」の記事における「関取昇進以後」の解説

1949年10月場所で十両昇進し1950年5月場所新入幕1955年に元・兄弟子佐渡ヶ嶽親方(元小結琴錦)が二所ノ関部屋から独立して佐渡ヶ嶽部屋創設したが、琴ヶ濵の二所ノ関部屋から佐渡ヶ嶽部屋への移籍は、1958年11月場所前に実現した。本来は部屋新設タイミングでないと移籍認められないが、看板力士失いたくなかった二所ノ関移籍遅らせたという。 幕内の上位で活躍するようになり「儂は内掛けなどくらわん」と豪語した横綱栃錦内掛け決めた際に栃錦内掛け封印宣言二度と使わなかった。また、北ノ洋が「内掛けが来たら外掛けひっくり返してやる」と作戦立てた際にも内掛けで倒すなど、猛威振るった小結地位にあった1957年1月場所休場し3月場所では前頭8目まで落ちたその場所で12勝3敗と好成績挙げてから好調続き、西張出小結地位迎えた同年5月場所では12勝3敗、西張出関脇地位迎えた9月場所では11勝4敗、東関脇の地位付いた次の11月場所では10勝5敗という好成績残し、この3場所で大関昇進必要だった「3場所30勝」という当時目安より一回り高い成績残していた。 ところが直前場所が10止まりであった理由から、昇進敢え無く見送られた。1957年1月場所途中休場しており、これがなければ年間最多勝受賞できたであろうと、同年11月行われた玉乃海太三郎との対談話している。次の1958年1月場所では東関脇で11勝4敗の成績挙げたが、再度却下される。それでも3場所連続東関脇の地位迎えた3月場所では、13勝2敗と好成績残し大関・朝汐との優勝決定戦出場惜しくも敗れ優勝逃した直前場所の大活躍が認められて、ようやく念願大関昇進した大関昇進翌年までは好成績多く横綱昇進期待されたが、以後は病や負傷苦しみ果たせなかった。公式に記録されているものだけでも数多くあるが、特に右足親指負傷してからは不振続きで、2場所連続負け越しでの角番合わせて3度当時の「大関は3場所連続負け越し陥落する」という特権的な制度活用しているとまで言われる程の不振ぶりだった。軸足となる右足に力が入らなくては琴ヶ濵最大武器である左内掛け威力発揮できなくなった名大関とも呼ばれる反面、この現役晩年不調評価下げたとも言われる最初角番迎えた1961年1月場所千秋楽大関柏戸12勝2敗同士勝った方が優勝相星決戦結果敗退)までもつれたのが最後の光だった。 1962年11月場所後、現役引退し年寄尾車襲名引退後は、琴櫻のよき相談相手となり佐渡ヶ嶽(元・琴錦)の死後部屋を彼が継承してからも補佐し長く審判委員務めたが、1981年6月7日脳出血のため東京都新宿区内の病院亡くなった53歳没。 没後尾車名跡は、琴乃富士(元前頭5)が3年襲名した後、同じ佐渡ヶ嶽部屋大関である琴風継承した

※この「関取昇進以後」の解説は、「琴ヶ濱貞雄」の解説の一部です。
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