関取昇進以後
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1949年10月場所で十両に昇進し、1950年5月場所で新入幕。1955年に元・兄弟子の佐渡ヶ嶽親方(元小結・琴錦)が二所ノ関部屋から独立して佐渡ヶ嶽部屋を創設したが、琴ヶ濵の二所ノ関部屋から佐渡ヶ嶽部屋への移籍は、1958年11月場所前に実現した。本来は部屋新設のタイミングでないと移籍は認められないが、看板力士を失いたくなかった二所ノ関が移籍を遅らせたという。 幕内の上位で活躍するようになり「儂は内掛けなどくらわん」と豪語した横綱・栃錦に内掛けを決めた際に栃錦は内掛け封印を宣言、二度と使わなかった。また、北ノ洋が「内掛けが来たら外掛けでひっくり返してやる」と作戦を立てた際にも内掛けで倒すなど、猛威を振るった。小結の地位にあった1957年1月場所は休場して3月場所では前頭8枚目まで落ちたがその場所で12勝3敗と好成績を挙げてから好調が続き、西張出小結の地位で迎えた同年5月場所では12勝3敗、西張出関脇の地位で迎えた翌9月場所では11勝4敗、東関脇の地位に付いた次の11月場所では10勝5敗という好成績を残し、この3場所で大関昇進に必要だった「3場所30勝」という当時の目安より一回り高い成績を残していた。 ところが直前場所が10勝止まりであった理由から、昇進は敢え無く見送られた。1957年は1月場所を途中休場しており、これがなければ年間最多勝を受賞できたであろうと、同年11月に行われた玉乃海太三郎との対談で話している。次の1958年1月場所では東関脇で11勝4敗の成績を挙げたが、再度却下される。それでも3場所連続で東関脇の地位で迎えた翌3月場所では、13勝2敗と好成績を残し大関・朝汐との優勝決定戦に出場、惜しくも敗れ優勝は逃したが直前場所の大活躍が認められて、ようやく念願の大関に昇進した。 大関昇進の翌年までは好成績が多く横綱昇進を期待されたが、以後は病や負傷に苦しみ果たせなかった。公式に記録されているものだけでも数多くあるが、特に右足親指を負傷してからは不振続きで、2場所連続負け越しでの角番が合わせて3度、当時の「大関は3場所連続の負け越しで陥落する」という特権的な制度を活用しているとまで言われる程の不振ぶりだった。軸足となる右足に力が入らなくては琴ヶ濵最大の武器である左内掛けは威力を発揮できなくなった。名大関とも呼ばれる反面、この現役晩年の不調が評価を下げたとも言われる。 最初の角番で迎えた1961年1月場所千秋楽、大関・柏戸と12勝2敗同士で勝った方が優勝の相星決戦(結果は敗退)までもつれたのが最後の光だった。 1962年11月場所後、現役を引退し、年寄・尾車を襲名。 引退後は、琴櫻のよき相談相手となり佐渡ヶ嶽(元・琴錦)の死後に部屋を彼が継承してからも補佐し長く審判委員を務めたが、1981年6月7日、脳出血のため東京都新宿区内の病院で亡くなった。53歳没。 没後、尾車の名跡は、琴乃富士(元前頭5)が3年間襲名した後、同じ佐渡ヶ嶽部屋の大関である琴風が継承した。
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