理事長就任
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師匠・出羽海としては、先代から引き継いだ三重ノ海剛司を横綱へ昇進させたほか、関脇・出羽の花義貴、小結・大錦一徹、佐田の海鴻嗣、舞の海秀平などの多くの幕内力士を育成した。それ以外にも日本相撲協会の監事(1972年から1期)、理事(1974年から)を務め、指導普及部長や事業部長を歴任、1992年からは二子山理事長の勇退によって日本相撲協会理事長を3期6年に渡って務めた。1996年には境川と名跡を交換し、出羽海 智敬から「境川 尚」となった。理事長時代には6年間で、 外国人力士の入門規制(1992年) 新規入門力士の年齢制限(1992年) 幕下付出の基準設定(1992年) 巡業の勧進元興行から協会自主興行への変更(1995年) などの施策を実施した(施策の評価については後述参照)。 しかし、1996年9月に年寄名跡の協会帰属・売買禁止という改革私案を打ち出すと、私案に反対する親方が続出し、1997年5月には私案の廃案に追い込まれた。当初、マスコミは反主流派を「守旧派」として批判したが、実際には当時の年寄株の取得相場が数億円単位で推移しており、株取得によって多額の負債を抱えている親方にとって売買禁止は死活問題だった。その一方では以下のような境川個人の立場に対する批判も噴出していた。 年寄名跡の「協会による一括管理」という厳格な方針を打ち出しながら、出羽海の後継者を名跡変更で指名していること 相撲茶屋の利権を握る先代の婿養子で、退職後の生活も保障済みという既得権益を得る立場にあること こうした批判の中、反主流派の代表格として間垣・高田川が1998年1月の役員改選で理事に立候補し、1968年の機構改革以来で初めてとなる「理事選挙」が実施された。結果として2名とも理事に当選したため、境川は混乱の責任を取る形で4期目の理事長続投を断念した。この直後に還暦を迎えるが、一連の騒動によって還暦土俵入りを辞退し、使用予定だった赤い綱を受け取るだけとなった。 また、理事長時代の1992年9月場所初日の協会挨拶では、結びの日付で「平成4年」と言うべきところを誤って「昭和4年」と言ってしまい、その直後に場内アナウンスで訂正される場面もあった。
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