理事長時代・晩年
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1978年頃のある日、天覧相撲の席で昭和天皇に取組を解説していた時、前頭上位で成長著しい蔵間龍也を取り上げて「蔵間は大関になります」と胸を張った。しかし当の蔵間は大関どころか三役に定着することすら出来ず、天皇は「蔵間、大関にならないね」と漏らした。春日野は「私は陛下に嘘を申し上げてしまいました」と謝罪し、その直後に蔵間を理事長室へ呼んで叱責したという。 両国国技館建設の折り、鹿島建設が当初出した工事の見積もりは161億5千万円だったが、二子山と二人で鹿島建設の社長に会い、端数の11億5千万円を値引きさせて150億円に負けてもらった。社長には「相撲取りは相手を負かすのが仕事です。今日は負かしに来ました。相撲には横綱五人掛かりがあるが、社長には栃若二人掛かりです」と言ったという。それでも150億円もの建設費は武蔵川理事長の時代から続く徹底した経費節約があって初めて完全に用意できるものであった。さらに両国の土地所有者である日本国有鉄道が大赤字であり蔵前が両国より土地の値段の高い時期を狙ったことで、蔵前の土地を売って両国の土地に買い替えつつ差額で建設費の一部を手に入れることもできた。 趣味はゴルフで、自慢は「角界第一号のホールインワン」。ある時のラウンドで大叩きするが、バンカーショットは上手いので一緒に回っていたプロに皮肉られると「こちとらは土俵の砂の上で散々苦労してきましたからね…」とやり返した。 別格の話好きで、取材に来た報道陣を捕まえては面白おかしく聞かせる話上手だった。晩年の代表作は幕内最高優勝者に送られる「全農賞」の副賞である米30俵についてで、「オレが頭を下げてもらってきたのに、ウチの部屋には一度も来ない。いつも九重部屋に持っていかれるんだから情けない。九重部屋では米を買ったことがないっていうじゃないか」と発言したこともある。 親方としては珍しく実子がおらず、ある時は「部屋の若衆が子供のようなものだ」と述べたことがある。北の湖敏満を養子に迎える意向を持っていたともいわれ、北の湖夫妻の仲人を務めている。 また、師匠栃木山の死後、未亡人の夫婦養子となり、「中田」姓となったが、養家の中田家も栃錦夫妻まで四代続いて、実子がなく夫婦養子で相撲茶屋「大和屋」を経営していたが、現在の経営者は栃木山の親族で、栃錦共々養子となっている。また、現在、春日野部屋所属の三役格行司・15代木村庄太郎は夫人が栃錦の養女(夫人の姪)に当たる。 栃錦が死去した時の喪主は夫人に先立たれており、また実子もいなかった為、春日野部屋を継承した栃ノ海晃嘉が喪主を務めた。 弟子である舛田山靖仁は栃錦が死去してから、千賀ノ浦部屋(現・常盤山部屋)を創設しているが、舛田山が停年を迎えてから部屋を継承したのは栃錦のライバル若乃花の弟子である隆三杉太一であり、舛田山の師匠時代から在籍している弟子は栃若両方の孫弟子という珍しい師弟関係となった。
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