理事長時代・晩年とは? わかりやすく解説

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理事長時代・晩年

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/13 03:24 UTC 版)

栃錦清隆」の記事における「理事長時代・晩年」の解説

1978年頃のある日天覧相撲の席で昭和天皇取組解説していた時、前頭上位成長著し蔵間龍也取り上げて蔵間大関なりますと胸張った。しかし当の蔵間大関どころか三役定着することすら出来ず天皇は「蔵間大関ならないね」と漏らした春日野は「私は陛下に嘘を申し上げてしまいました」と謝罪し、その直後蔵間理事長室へ呼んで叱責したという。 両国国技館建設折り鹿島建設当初出した工事見積もり161億5千万円だったが、二子山二人で鹿島建設社長に会い端数11億5千万円を値引きさせて150億円に負けてもらった社長には「相撲取り相手負かすのが仕事です。今日負かしに来ました。相撲には横綱五人掛かりがあるが、社長に二人掛かりです」と言ったという。それでも150円もの建設費武蔵川理事長時代から続く徹底した経費節約があって初めて完全に用意できるものであった。さらに両国土地所有者ある日本国有鉄道が大赤字であり蔵前両国より土地値段の高い時期狙ったことで、蔵前土地売って両国土地買い替えつつ差額建設費一部手に入れることもできた。 趣味ゴルフで、自慢は「角界第一号のホールインワン」。ある時のラウンドで大叩きするが、バンカーショット上手いので一緒に回っていたプロに皮肉られると「こちとら土俵の砂の上散々苦労してきましたからね…」とやり返した。 別格話好きで、取材に来た報道陣捕まえて面白おかしく聞かせる話上手だった。晩年代表作幕内最高優勝者に送られる全農賞」の副賞である米30俵についてで、「オレ頭を下げてもらってきたのに、ウチ部屋には一度も来ない。いつも九重部屋持っていかれるんだから情けない。九重部屋では米を買ったとがないっていうじゃないか」と発言したこともある。 親方として珍しく実子がおらず、ある時は「部屋若衆子供のようなものだ」と述べたことがある北の湖敏満養子迎え意向持っていたともいわれ、北の湖夫妻仲人務めている。 また、師匠栃木山死後未亡人夫婦養子となり、「中田」姓となったが、養家中田家栃錦夫妻まで四代続いて実子がなく夫婦養子相撲茶屋大和屋」を経営していたが、現在の経営者栃木山親族で、栃錦共々養子となっている。また、現在、春日野部屋所属三役格行司15木村庄太郎夫人栃錦養女夫人の姪)に当たる。 栃錦死去した時の喪主夫人先立たれており、また実子もいなかった為、春日野部屋継承した栃ノ海晃嘉喪主務めた弟子である舛田山靖仁栃錦死去してから、千賀ノ浦部屋(現・常盤山部屋)を創設しているが、舛田山停年迎えてから部屋継承したのは栃錦ライバル若乃花弟子である隆三杉太一であり、舛田山師匠時代から在籍している弟子両方孫弟子という珍しい師弟関係となった

※この「理事長時代・晩年」の解説は、「栃錦清隆」の解説の一部です。
「理事長時代・晩年」を含む「栃錦清隆」の記事については、「栃錦清隆」の概要を参照ください。

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