取組以外の相撲関連
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内田勝男(元大関・初代豊山)からは内田の現役時代のDVDを贈られており、これが時津風部屋の歴史の一部を知る機会となった。 大関昇進前は番付の都合でNHKの大相撲中継でニュースが組まれる前後に取り組みが行われることが多々あった。その時のニュース担当のアナウンサーが松村正代だったことがあり、正代から正代に渡すような構成になっていた。松村も正代のファンである。 2017年7月場所前の二子山(元大関・雅山)コラムでは貴源治と共に次代を担う力士として期待されている。 2017年7月場所初日はムスタングで場所入りした。 2017年のインタビューで記者から色紙に好きな言葉を書くように頼まれると「大関…なれるかなぁ」「四字熟語がいいかな」「あ、そうだ。父親がこのあいだ『現状維持が大事』と言っていたんで。今回、これでもいいですかね」と悩んでいた。豊ノ島から角界を背負っていく存在になると期待されると「いや、いざとなれば小柳(現在の3代目豊山)がいますから」と弱気であった。 2017年1月場所前の座談会ではお笑い芸人のはなわが、同じ九州出身力士の松鳳山から正代がやたらといじられていることを話していた。それだけ松鳳山と仲が良いことを表すエピソードである。 2019年4月15日に行われた春巡業の靖国神社奉納大相撲では約15分の間に鶴竜の横綱土俵入りの従者を2回務め、自分の幕内土俵入りもこなした。正代は「1日2度は初めて。しかもこんな短時間に」と、疲れた様子で語った。 2020年1月場所中「受験は12月に終わりました。ちょうどアマチュア選手権(全日本選手権)とかぶって。予選落ちしてから試験受けました。受験の緊張でアマチュア選手権どころじゃなかったです」と自身が熊本農高3年の時のことを語った。東農大へはスポーツ推薦で進学予定でよほどのことがない限り受験に失敗することが無かったにもかかわらず当時非常に不安がっていた。これは正代のネガティブぶりが分かるエピソードとなっている。 2020年1月場所は1963年7月場所に北葉山が達成して以来となる時津風部屋の幕内最高優勝が懸かっていただけに地元の宇土市は大騒ぎであったという。場所14日目には同市旭町のエコウィン宇土アリーナでパブリックビューイングが開かれた。 2021年6月2日、同年4月に故郷の宇土市で地元後援会が新設されたことが正代本人によって明かされた。 2021年8月23日に相撲教習所で行われた合同稽古では春日野から「そんな胸(の出し方)だったら、大関が胸を出す必要ないんじゃないか。どれだけやるのかと思ったら、なんじゃそりゃ。なめてんのか。それが大関か、おい!」と激しく叱責された。稽古場に入る前に、正代が他の関取衆やある親方らと談笑する時間が多かったこともあり、春日野親方はさらに「ペラペラペラペラおしゃべりするなら来るな。もっと貫禄見せろよ」と室内に怒声を響かせた。当の正代は9月6日の朝稽古後に「コロナの環境で他の部屋の人としゃべる機会がだいぶ少なくなって、しゃべり込んじゃって。ちょっと緩んでいた、たるんでいたという部分があったのを見透かされた感じだった」と反省の弁を述べ「春日野親方は大学出身力士の方なので、気にかけていただいていると思う」とも話した。 NHK解説の北の富士勝昭からは「稽古不足」などの辛口コメントが多い。 2022年5月場所からは不二家から贈呈されたペコちゃんが描かれた化粧廻しを使用。弟弟子の豊山はポコちゃんが描かれた化粧廻しを使用。
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取組以外の相撲関連
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相撲甚句の名手として知られ、幕下時代より巡業で甚句を担当しており、「双葉山」などを持ち歌にしている。2013年6月22日には東京藝術大学において相撲甚句を披露。その際に史上初のオーケストラとの共演を果たした。 「15戦全勝」に繋がる験担ぎとしてさがりの本数を15本にしている白鵬にならって自身も同様にさがりを15本にしていた。 高須克弥と西原理恵子をタニマチに持っている。そのため本場所では高須クリニック名義で懸賞金を設定されており、西原のデザインした化粧廻しを贈られている。勢の弟弟子の錦木が十両に昇進した際も高須から西原のデザインした化粧廻しを贈られている。 2013年12月19日、両国国技館で日本相撲協会が史上初めて園児対象のイベントとして開催した「クリスマスお楽しみ会」で園児と触れ合い、“歌の先生”として「オリジナル相撲甚句」も披露した。 2014年5月場所より第71代横綱に昇進した鶴竜の太刀持ちを同門の幕内力士として務めることになり、土俵入りの従者自体は同年3月28日に行われた明治神宮で奉納土俵入りで初めて経験。勢は「右手がプルプル。そんきょも不安定。本場所も巡業もやらせていただきます」と太刀持ちを務めた感想を述べていた。
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取組以外の相撲関連
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/13 02:11 UTC 版)
現役時代、廻しに付けていた下がりの本数が19本であった。 大鵬はどこへ行くにも必ず付け人への土産を買い忘れることがなかったといい、ある時は沢山食べて体が大きくなるようにと付け人たちへ寿司折りを買ってきたという。 現役時代には野球と麻雀を趣味としていた。入幕したばかりの頃は、部屋で草野球が行われれば出場する程度であまり野球に興味はなかったというが、1966年頃になると稽古の合間にキャッチボールをするようになり、野球の腕前はなかなかであったという。麻雀は下手の横好きであり、4人麻雀で1人負けしたこともある。 新入幕の翌年に横綱に昇進した力士は大鵬以前にはなく、2018年(平成30年)現在でも大鵬が唯一である。大鵬の三賞受賞数が3回と少ないのは、あまりにも早く大関・横綱へ昇進したためである。しかし、横綱は他の力士と違って降格を許されない地位であり、体力が衰えて横綱の地位に見合った好成績を出せなくなれば早期引退以外に道はない。このことを大鵬自身はよく認識しており、横綱昇進が決定した時にも喜びの気持ちは全くなく、むしろ引退する時のことを意識せずにはいられなかったという。 横綱土俵入りは、肘を少し曲げ伸ばししながら掌を返すことが特徴だった。非常にテンポの遅い土俵入りを行っていたことでも知られており、大抵2分余り、現役最終盤の時期にあたる1970年から1971年に至っては3分を超えるまでになった。しかし1963年3月場所後に行われた二子山の談話で概して「せり上がりに区切りが無く、中段が早すぎる。柏手を打つときに首を振る癖がある。内側に向けて四股を踏むのも良くない」と立て続けに駄目出しされるなど、少なくとも横綱初期においては土俵入りが下手という評判であった。 土俵入りについては、横綱昇進直後の静岡県島田市での巡業の際に東から土俵に上がったにもかかわらず、左足で四股を踏んだ後、帰る段に引く足を間違えて逆の西方を向いてしまうという失態を演じており、これも影響して、以後しばらくは土俵入りには相当神経を使い、土俵入りを終えた後は毎回汗びっしょりになっていたという。また、横綱昇進直後の土俵入りは1分10秒程度で終わっており、親しい新聞記者から「早すぎて締まりがない」と指摘されて、以後間合いを持たせるように留意した。その後、土俵入りの時間は次第に長くなっていったが、それでも本人は「引退までギクシャクした感じがあった」と語っている。
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取組以外の相撲関連
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2020年初場所中、2000年春場所の幕尻優勝経験者として当時を振り返りながら「德勝龍は一生懸命やっている。だからファンも記者も震えるでしょう、おぉ!って。こういう一世一代の勝負を見ていると楽しい。緊張しないわけがない。どっちが勝つかわからないけれど、德勝龍が勝って(優勝して)もうれしいし、正代が優勝してもうれしいよ」とエールを送った。この場所で德勝龍は貴闘力以来20年ぶりの幕尻優勝を果たしている。
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