角界入り
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1903年11月1日に、静岡県浜名郡三方原村(現:静岡県浜松市北区)で農家を営む家に三男として生まれる。三男に生まれたことからそのまま「三郎」と名付けられた。学問を志したことで尋常高等小学校を卒業したが、この時で既に身長が176cmに達していたことから、「静岡に怪童あり」との評判を聞きつけた出羽ノ海(元横綱常陸山)から卒業式当日に勧誘されたが、当初は勉学を志していたので断った。しかし、三郎少年は三男であることから土地の風習で中学校へ進学することが出来ず、地元にあった浅野造船所に勤務する同郷の人物(重役)の書生を務めつつ、東芝川崎工場にあった工手学校で学んでいた。 そんなある日、再び出羽ノ海から「部屋へ遊びに来るように」との勧誘の手紙が届き、翌年に常陸山が直接訪問してきた際の再勧誘で角界入りを決意した。父親からは見送りに来た駅で「勘当だ。入幕するまでこの駅に降りてはならん」と言われた。1920年1月場所で初土俵を踏む。四股名は最初地元の古戦場に因んで「三方ヶ原」としたが、番付に名が載って2場所目で「天竜」と改めている。士族出身で力士の地位向上に心を砕いた常陸山に師事したことは、天竜の相撲観やその後の行く末に多大な影響を与えた。
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角界入り
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幼少期に父親の影響で柔道を始めたが、津市立敬和小学校に土俵が完成してからは毎日のように相撲を取って相撲が徐々に好きになり、地元の商店街で出場を勧められた相撲大会で優勝してからはさらに好きになった。次第に対戦相手に困るようになると、立浪部屋後援会会員の中にアマチュア相撲三段の腕を持ち、「津相撲クラブ」の責任者を務める人物から指導を受け、津市立東橋内中学校へ入学して以降は立合いの当たりで対戦相手を土俵下まで吹っ飛ばすほどの実力を付けた。指導者の協力で、毎年の夏休みには立浪部屋へ泊まり込みで稽古し、6時に起きて周辺を5km走るのも絶対に欠かさなかった。中学入学後は同じ中学生に十分な相手がいなかったために三重高等学校へ出稽古に出かけたが、高校生を相手に全く負けず、3年生の夏休みに相撲教習所で行われた日本相撲協会指導普及部の進級試験兼各支部対抗試合でも優勝した。中学校には相撲部や土俵が無かったためにアマチュア相撲界では無名だった北尾が、これにより角界でたちまち評判になった。両親はそのまま三重高等学校への進学を願ったが入門の意思は変わらず、「5年で関取になれなかったら帰る」との条件付きで、中学卒業と同時に立浪部屋に入門した。 1979年3月場所に初土俵を踏む。この場所、中卒で初土俵を踏んだ昭和38年生まれ力士たちは「花のサンパチ組」と呼ばれ、北尾もその一人として数えられた。初土俵を踏んだ時点で195㎝の長身と当初から鳴り物入りで角界入りした北尾は、恵まれた体格と素質は誰もが認めるほどだった。また、相撲教習所では自他ともに認める「バスケットボール選手みたいな体」で注目を集め、中でも同期の保志(のちの横綱・北勝海)は特に驚いていたというが、北尾は「小柄な保志は保志で、すごく目立っていました」と後年述懐している。幕下時代には後援者と食事をした時に、自身の大好物であるステーキを3000g食べたかと思うと、直後に中華丼・天津丼・オムライス・炒飯・チャーシュー麺・冷やし中華・カツ丼を次々に注文しては殆ど完食するほどだった。
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角界入り
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1920年1月1日に静岡県静岡市(現:静岡県静岡市駿河区)で生まれる。幼い頃から身体を動かすことが得意だったため、天竜三郎が結成した関西角力協会へ入門したが、番付に掲載してから僅か2場所の1937年12月に解散となったため、日本相撲協会に帰参する者と同時に新規加入し、1938年1月場所において出羽海部屋から初土俵(幕下付出)で踏んだ。四股名は出身地と天竜三郎に因んで「葵龍(あおいりゅう)」とした。 1939年5月場所から四股名を「駿河海」と改名して順調に出世し、新十両となった1942年1月場所で13勝2敗の好成績で十両優勝を果たすと、同年5月場所でも14勝1敗の好成績で十両優勝を果たし、1943年1月場所で新入幕を果たした。十両時代は東富士欽壹・汐ノ海運右エ門と共に将来を大いに嘱望されていた。この頃から汐ノ海が赤鬼と呼ばれていたのに対して、駿河海は「青鬼」と称された。組んでも離れても十分に相撲が取れる取り口で、突っ張ってから左四つになってからの吊りに威力を発揮したが、新入幕の場所で膝を負傷したことで、その後は一度も幕内で勝ち越すことが出来ないまま、1945年11月場所を最後に廃業した。
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角界入り
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元々は兄と同じ警察官を志望していたが、押尾川親方(元大関・大麒麟)に説得されて地元の飯塚高等学校を2年生終了の時点で中退して押尾川部屋に入門し、1979年3月場所において17歳で初土俵を踏んだ。後の横綱・双羽黒や北勝海らと同期である。当初の四股名は本名の「手島」であったが、読みは「てじま」と濁っていた。1980年9月場所前の、澤田一矢らの「三筆工房」による部屋機関紙『押尾川部屋』(年3回発行)の第7号では「思い切りのいい頭からの立ち合いと、得意の右四つで攻め込むのが自分の型。腕の力に頼り過ぎるのを反省、足腰をさらに鍛えます」と答えている。新弟子時代から午前2時に起きて相撲教習所で稽古に励み、同様の稽古を行う寺尾や琴ヶ梅と共に鍛え合ったという過分なほどの稽古熱心さで実力を伸ばし、1983年7月場所に22歳で新十両へ昇進し、同時に「益荒雄」と四股名を改める。四股名は「剛勇な男子=益荒男」という意味であり、故郷の糸田町から贈られた化粧廻しは「玄界灘の荒波と旭日、日本一の槍」という勇壮なデザインであった。その後は一時「手島」の名に戻していた時期もあったが、1985年3月場所において「益荒雄」に再改名してからは引退までそのまま通した。同年9月場所に24歳で新入幕を果たしたものの、しばらくは幕内と十両を往復する状況が続いた。
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