角界入りとは? わかりやすく解説

角界入り

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/13 04:55 UTC 版)

天竜三郎」の記事における「角界入り」の解説

1903年11月1日に、静岡県浜名郡三方原村(現:静岡県浜松市北区)で農家を営む家に三男として生まれる。三男生まれたことからそのまま三郎」と名付けられた。学問志したことで尋常高等小学校卒業したが、この時で既に身長が176cmに達していたことから、「静岡怪童あり」との評判聞きつけた出羽ノ海(元横綱常陸山)から卒業式当日勧誘されたが、当初勉学志していたので断った。しかし、三郎少年三男であることから土地風習中学校進学することが出来ず地元にあった浅野造船所勤務する同郷人物重役)の書生務めつつ、東芝川崎工場にあった工手学校学んでいた。 そんなある日、再び出羽ノ海から「部屋遊びに来るように」との勧誘の手紙が届き翌年常陸山直接訪問してきた際の再勧誘で角界入りを決意した父親からは見送りに来た駅で「勘当だ。入幕するまでこの駅に降りてはならん」と言われた。1920年1月場所初土俵を踏む。四股名最初地元古戦場因んで三方ヶ原」としたが、番付に名が載って2場所目で「天竜」と改めている。士族出身力士地位向上に心を砕いた常陸山師事したことは、天竜相撲観やその後行く末多大な影響与えた

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角界入り

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/12 09:15 UTC 版)

北尾光司」の記事における「角界入り」の解説

幼少期父親影響柔道始めたが、津市立敬和小学校土俵完成してからは毎日のように相撲を取って相撲徐々に好きになり、地元商店街出場勧められ相撲大会優勝してからはさらに好きになった。次第対戦相手困るようになると、立浪部屋後援会会員中にアマチュア相撲三段の腕を持ち、「津相撲クラブ」の責任者務め人物から指導を受け、津市東橋内中学校入学して以降立合いの当たりで対戦相手土俵下まで吹っ飛ばすほどの実力付けた指導者協力で、毎年夏休みには立浪部屋泊まり込み稽古し6時起きて周辺5km走るのも絶対に欠かさなかった。中学入学後は同じ中学生十分な相手がいなかったために三重高等学校出稽古に出かけたが、高校生相手に全く負けず3年生夏休み相撲教習所行われた日本相撲協会指導普及部の進級試験各支部対抗試合でも優勝した中学校には相撲部土俵無かったためにアマチュア相撲界では無名だった北尾が、これにより角界でたちまち評判になった両親そのまま三重高等学校への進学願った入門意思変わらず、「5年関取になれなかったら帰る」との条件付きで、中学卒業と同時立浪部屋入門した1979年3月場所に初土俵を踏む。この場所、中卒初土俵踏んだ昭和38年生まれ力士たちは「花のサンパチ組」と呼ばれ北尾もその一人として数えられた。初土俵踏んだ時点195長身当初から鳴り物入りで角界入りした北尾は、恵まれた体格素質誰もが認めるほどだった。また、相撲教習所では自他ともに認めるバスケットボール選手みたいな体」で注目集め中でも同期保志(のちの横綱北勝海)は特に驚いていたというが、北尾は「小柄な保志保志で、すごく目立っていました」と後年述懐している。幕下時代には後援者食事をした時に自身大好物であるステーキを3000g食べたかと思うと、直後中華丼天津丼オムライス炒飯チャーシュー麺冷やし中華カツ丼次々注文しては殆ど完食するほどだった。

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角界入り

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/03/02 16:26 UTC 版)

駿河海光夫」の記事における「角界入り」の解説

1920年1月1日静岡県静岡市(現:静岡県静岡市駿河区)で生まれる。幼い頃から身体を動かすことが得意だったため、天竜三郎結成した関西角力協会入門したが、番付掲載してから僅か2場所の1937年12月解散となったため、日本相撲協会帰参する者と同時に新規加入し、1938年1月場所において出羽海部屋から初土俵幕下付出)で踏んだ四股名出身地天竜三郎因んで龍(あおいりゅう)」とした。 1939年5月場所から四股名を「駿河海」と改名し順調に出世し新十両となった1942年1月場所13勝2敗の好成績十両優勝を果たすと、同年5月場所でも14勝1敗の好成績十両優勝果たし1943年1月場所新入幕果たした十両時代東富士欽壹汐ノ海運右エ門と共に将来大い嘱望されていた。この頃から汐ノ海が赤鬼呼ばれていたのに対して駿河海は「青鬼」と称された。組んで離れて十分に相撲取れ取り口で、突っ張ってから左四つになってからの吊り威力発揮したが、新入幕の場所で膝を負傷したことで、その後一度幕内勝ち越すことが出来ないまま、1945年11月場所最後に廃業した

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角界入り

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/23 16:45 UTC 版)

益荒雄広生」の記事における「角界入り」の解説

元々は兄と同じ警察官志望していたが、押尾川親方(元大関大麒麟)に説得され地元飯塚高等学校2年生終了時点中退して押尾川部屋入門し1979年3月場所において17歳初土俵踏んだ。後の横綱双羽黒北勝海らと同期である。当初四股名本名の「手島であったが、読みは「てじま」と濁っていた。1980年9月場所前の、澤田一矢らの「三筆工房」による部屋機関紙押尾川部屋』(年3回発行)の第7号では「思い切りのいい頭から立ち合いと、得意の右四つ攻め込むのが自分の型。腕の力に頼り過ぎるのを反省足腰をさらに鍛えます」と答えている。新弟子時代から午前2時に起きて相撲教習所稽古励み同様の稽古を行う寺尾や琴ヶと共に鍛え合ったという過分なほどの稽古熱心さで実力伸ばし1983年7月場所に22歳新十両へ昇進し同時に益荒雄」と四股名改める。四股名は「剛勇な男子益荒男」という意味であり、故郷糸田町から贈られ化粧廻しは「玄界灘荒波旭日日本一」という勇壮なデザインであったその後一時手島」の名に戻していた時期もあったが、1985年3月場所において「益荒雄」に再改名してからは引退までそのまま通した同年9月場所24歳新入幕果たしたものの、しばらくは幕内十両往復する状況続いた

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