入門から新入幕まで
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大学進学も検討していたが、高校卒業直前には2005年1月場所に澤井と同時に初土俵を踏む。入門当初はおっつけや摺り足に課題があり、稽古で改善を重ねていった。そうして初土俵から勝ち越しを続け、同年11月場所では7戦全勝で三段目優勝を果たし、翌2006年1月場所に幕下へ昇進し、西幕下3枚目の位置まで番付を上げた同年5月場所では5勝2敗という好成績を挙げたものの、幕下に陥落する力士が少なかったために場所後の十両昇進はならなかった。翌7月場所でも東幕下筆頭の位置で6勝1敗という好成績を挙げて、初土俵から1回も負け越すことなく、翌9月場所において新十両へ昇進した。初土俵から所要10場所での十両昇進は貴花田・朝青龍・露鵬・時天空と並ぶ史上9位タイのスピード記録となった。また、十両昇進と同時に四股名を本名の「影山」から「栃煌山」へと改めた。「栃煌山」という四股名は、春日野親方と母親が相談して決めた。春日野部屋の多くの力士がつける「栃」、そこから煌めいて欲しいとの思いを込めて「煌」、そして本名の影山から「山」をとり、「栃煌山」となった。実は栃煌山自身は、記者会見当日まで四股名を知らされておらず、「記者の人たちに“四股名、どう思いますか?”“どういう由来ですか?”と言われたのですが、その時に初めて聞いたので返答に困りました」という。新十両の昇進会見では、色紙に「横綱になる」と記している。 新十両となった2006年9月場所では9勝6敗と勝ち越し、西十両2枚目の位置まで大きく番付を上げた翌2007年1月場所では10勝5敗の好成績を挙げ、霜鳥と豊響との優勝決定戦に進出した。優勝決定戦は豊響が制して十両優勝はならなかったものの、翌3月場所において新入幕を果たした。初土俵から13場所での新入幕は旭富士・貴花田・武蔵丸・豊真将に続き史上9位タイのスピード記録となった。
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入門から新入幕まで
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/09 01:21 UTC 版)
高校3年生の時に日本大学への推薦入学が内々定したが、澤井は角界入りを望んでいた。結果として日大への進学を辞退したが、これによって直前に控えていた国民体育大会相撲競技に臨むために稽古をする場所がなくなった(豪栄道の稽古相手が務まる選手は日大ぐらいにしかいなかった)。そんな時、埼玉栄高校相撲部の山田道紀監督の先輩である境川親方(元小結・両国)に相談し、部屋の力士が稽古相手を引き受けることになる。幕下相手に稽古をすると、澤井の方が圧倒的に強かったというが、そのまま境川部屋へ入門し角界入り。2005年1月場所に初土俵を踏み前相撲デビューする。三学期に入門してはいるが、埼玉栄高校は卒業している。 序ノ口から三段目までをそれぞれ1場所で通過し、幕下2場所目となる2005年11月場所では7戦全勝の成績を挙げて初の幕下優勝を果たした。2006年1月場所では西幕下2枚目の位置まで番付を上げたものの3勝4敗と入門してから初の負け越しを経験した。翌3月場所も3勝4敗と連続して負け越した澤井は「勝ちたい気持ちが強すぎて、固くなって自分の相撲が取れなくなった」と立合いで変化して相手を捌く小手先の相撲を封じ、以降関取昇進まで立合いで正面から当たれるようになったことで攻めのスピードも上がった。新十両昇進では栃煌山に先を越されたものの、2006年9月場所において西幕下6枚目の位置で7戦全勝の成績を挙げて2回目の幕下優勝を果たして、翌11月場所において新十両へ昇進し、同時に四股名を本名の「澤井」から「豪栄道」へと改名した。「豪」は本名の豪太郎と師匠の境川豪章の名前から、「栄」は埼玉栄高から、「道」は相撲道と埼玉栄高相撲部監督の山田道紀の名前から1字ずつ採り、「力強く栄え相撲道に精進する」意を込めた。 新十両となった2006年11月場所と翌2007年1月場所は連続して勝ち越し、安定した実力を示した。 ひと足先に栃煌山が入幕した翌3月場所では、初日から7連勝して十両優勝の争いに名乗りを上げ、千秋楽には里山に敗れ惜しくも十両優勝とはならなかったが11勝4敗の好成績を挙げた。東十両3枚目へと番付を上げた翌5月場所では6勝9敗と負け越すが、翌7月場所では西十両5枚目の位置で12勝3敗で優勝決定戦へ進出、岩木山・旭天鵬との巴戦となった優勝決定戦で敗れ十両優勝を逃したものの、翌9月場所の新入幕を確実なものとした。
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入門から新入幕まで
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アマチュア横綱獲得を最後にアマチュア相撲の試合は全て終わり、高校教師やプロ入りといった複数の選択肢から、同郷出身で日大の先輩でもある追手風親方(元幕内・大翔山)が師匠を務める追手風部屋に入門することを選んだ。2013年2月14日に記者会見を行って入門を正式表明、記者会見では日大出身者で唯一横綱となった石川県出身の輪島が目標と語った。同月20日に日本相撲協会の理事会で幕下付出入門が承認され、3月2日に行われた新弟子検査も無事合格。場所直前の3月3日には、前日に焼き肉をたらふくご馳走になった上に弁当三つを平らげたことで朝から苦しい思いをした中、部屋の力士達との申し合いで20勝2敗と圧倒し、さらに食べ過ぎによる体調不良があったとはいえ「70~80%の力で稽古しました」と豪語してみせた。同年3月場所、本名の「遠藤」を四股名として初土俵を踏んだ。 初土俵場所は7戦全勝優勝で所要1場所での新十両を目標としていたが、3番相撲(6日目)で祥鳳に突き落としで敗れてプロ初黒星となった。初黒星を喫した直後は「気持ちの切り替えが大事」と語っていたが、さらに4番相撲も続けて敗れたため、幕下優勝も1場所での新十両もともになくなった。その後は2番とも白星でデビュー場所は5勝2敗で終えた。 2013年5月場所は東幕下3枚目で5勝2敗の成績で終えた。5月場所後に行われた7月場所番付編成会議では新十両昇進が決まった。しかしながら本人も師匠の追手風親方も「5月場所の成績では(十両への)昇進は難しいだろう」と考え、7月場所での新十両昇進を予想していなかった。翌場所から蒼国来の番付復帰が決まっていたため成績上幕下へ陥落が確実な3人に加えて1人多く落とす必要があったが、不公平がないよう単純計算で東14枚目相当の力士を3人とも幕下へ降格させたためこのような事態となった。このことから、当初は関取となってから四股名を付ける予定であったものを準備不足を理由に見送り、7月場所は本名のままで土俵に上がることになった。新十両で迎えた7月場所は4日目に徳真鵬に敗れたものの、終始他を寄せ付けない圧倒的な強さで13日目に栃乃若を破り、千秋楽を待たずに2012年1月場所の千代大龍以来となる新十両での優勝を決め、千秋楽も勝って14勝1敗で終えた。新十両での14勝は1950年9月場所の米川(後の横綱・朝潮)以来史上2人目、実に63年ぶりだった。9月場所では新入幕。史上4人目となる十両1場所通過、幕下付出から史上最速の所要3場所での新入幕だった。勝ち続けている中で流れを変えないために四股名はまだ付けず、本名で入幕することになった。
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