入門から大関昇進までとは? わかりやすく解説

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入門から大関昇進まで

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/23 19:18 UTC 版)

旭國斗雄」の記事における「入門から大関昇進まで」の解説

幼い頃からスポーツが得意で中学校時代野球をしていた。3年生時に人数不足から相撲部助っ人として大会出場し優勝大島親方(元前頭19目・若浪)を紹介され1962年立浪部屋入門した床山新弟子間違われたほど小柄だったため新弟子検査では4場所続けて不合格になり諦めかけたが、兄弟子親方励まされてもう1度受けることを決意。少しでも身長計測有利になるようにと兄弟子頼んで頭を殴ってもらい瘤を作り床山頼んで髪を持ち上げてもらい検査受けた幸運にその時1963年7月場所)の検査担当したのが師匠立浪親方(元横綱羽黒山)だったため御目溢し合格の判を押してもらえた。四股名である旭國は、かつて立浪部屋力士であった同じ北海道出身旭國旭川市出身)の名を継いだもので二代目である。 新弟子時代は同部屋所属力士が約60人もおり、早起きしなければ土俵での稽古が満足に積めなかった。黒姫山早起きであったので、どちらが朝稽古の1番乗りになるか競争していた。大部屋なので兄弟子のいじめもあり、早く出世しないといじめによって壊される恐れもあったので一生懸命稽古励んだ辛くなって辞めたくても、廃業した母親が悲しむと思って我慢していた。一方で弟弟子黒姫山証言によると、やはり見習い期間長かったため新弟子検査合格から半年程度で髷を結い始めその頃から部屋幕下とも対等に口を聞いていたという。 幕下時代盲腸の手術を受けたが傷が癒える前に稽古始めてしまい、しかも大酒飲んだことがたたって膵臓患い苦しまされた。この膵臓炎結果として現役時代10数回入院し最長28日絶食」という苦し経験もたらす程に大きな障害となった膵炎原因根本として若浪付き人務めていた頃に酒を飲み過ぎたことにあり、若浪自身もそれを後年述懐していた。1969年7月場所に新入幕。しかし1970年3月場所急性胆嚢炎13日目から途中休場し、翌5月場所は9勝6敗と勝ち越す7月場所は4勝11敗と大負けし十両陥落1971年11月場所に再入幕したが、翌年1972年1月場所は膵臓炎初日不戦敗の後休場してしまい再度十両陥落同年5月場所再々入幕してからようやく幕内定着する小結だった1975年3月場所膵臓炎入院し初日から休場した点滴が終わると病院抜け出して稽古をしていた。医師に「こんな体で相撲取ったら死ぬぞ。」と警告されても「土俵死ねれば力士本望」と10日目から出場して4勝2敗。背骨両脇上下に並ぶ鍼の跡の絆創膏大きく目立った。翌7月場所11勝4敗の好成績挙げて1場所で小結復帰してからは三役定着していき、関脇地位迎えた1976年1月場所は12勝3敗、大関獲りとなる3月場所初日から白星並べていき13勝2敗の好成績横綱輪島との優勝決定戦出場敗れはしたが大関昇進した28歳11ヶ月での新大関昇進は、年6場所制が定着した1958年1月場所以降初土俵力士では当時最年長であった(現在は琴光喜記録保有)。実際に大関昇進確定したのはこの場所13日目の北の湖戦で11勝目挙げた一番で、右上手を取って頭を付けた旭國は、北の湖が右から小手に振るところを外掛け防ぎ渾身の力で寄り切った相撲内容であった立浪部屋からは若羽黒以来17年ぶりの大関

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入門から大関昇進まで

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/08 14:28 UTC 版)

魁傑將晃」の記事における「入門から大関昇進まで」の解説

山口県岩国市生まれ小学校3年生まで岩国市過ごしその後日本大学文理学部進学するまで下関市過ごした小学校の頃は野球興味持っていたが、足が遅かったので下関市立日新中学校時代柔道始める。この時期栃若時代全盛期であり、のちに同門先輩となる初代若乃花テレビで応援していた。山口県立下関中央工業高等学校では柔道部の主将になった高校柔道部仲間は、相撲大会時期になるとマワシをつけて相撲大会出場するのが恒例行事だったが、マワシ付けるのが嫌で3年一度参加しなかった。講道館行なわれ紅白試合で6人抜き達成して講道館3段銀盃与えられるなどの実績挙げ特待生として日大進学した将来五輪代表と目され一方その素質見た後援者薦めで、花籠親方(前3・大ノ海)がスカウトに動き1年生夏休み前に本人部屋呼び出し、「相撲部屋入門する時は、花籠部屋以外には入りません。」なる誓約書を書かせた。本人相撲取りになる気など更々無くならないならば花籠部屋に入る事も無いという気持ち書いたが、この誓約書花籠親方両親口説き落とし青森県警稽古アルバイトか帰った本人相撲取りになる様説得した結果嫌々ながら相撲取りになる事を受け入れ日大1年中退して花籠部屋入門し1966年昭和41年9月場所初土俵踏んだ初め番付載った11月場所では、序ノ口を7戦全勝優勝し、翌1967年昭和42年1月場所では、序二段で6勝1敗の好成績で、3月場所には三段目上がった。しかしどうして相撲馴染めない為、その年の8月末に部屋脱走し従兄弟の家に隠れたものの、すぐに追っ手発見され部屋に連れ戻された。今度こそ相撲取り辞める決心固め親方に「辞めさせてください」と挨拶したが、「大勢反対押し切って相撲取りになったのに、1年辞めるなら、その人たちに「もう辞めました」と挨拶して来いと言われ今更柔道界に戻ることも出来ない諦め部屋に残る事にした。三段目でも7戦全勝記録し1968年昭和43年3月場所幕下昇進したが、そこから少し伸び悩み十両昇進1970年昭和45年1月場所まで11所を要したその場所では、場所の直前風邪を引いた事もあって4勝11敗と大きく負け越し、2場所幕下下がって再び十両返り咲いた。またこの年花籠部屋輪島入門してきた。 当初本名の「西」(番付ではは木冠に冫人で書かれた)を名乗っていたが、十両昇進すると「花錦」という四股名改名所属する花籠部屋と、故郷岩国錦帯橋から1文字ずつ取り名付けられた。しかし、本人花錦自分には合わないとして嫌ったため、短期間改名することになり、女将さんによって「魁傑」と命名される実際には、本人昼寝中に新し四股名女将から複数提示され寝ぼけながらも別の候補選んだが、昼寝から覚めると魁傑決まっていたという。最初戸惑ったものの、これが昔中国で活躍した武将の名で、勝負師相応し四股名であることを知って大い気に入ったと言う1971年昭和46年9月場所新入幕、この場所は7勝8敗と負け越す幕内とどまり11月場所千秋楽まで8勝6敗と勝ち越していた。千秋楽の日、病床父親から珍しく応援電話入り電話切って10分後に母親から「お父さん死んだ。」との電話を受け、気持ち整理付かないまま土俵上がったものの、黒姫山強烈なぶちかまし突き飛ばされた。すぐに郷里戻り葬儀行ったが、その時葬儀場並んだ山口県知事岩国市長、後援会長や相撲協会などからの花輪が並ぶ盛大な葬式出せたのを見て初めて「父親薦められ相撲取りになったからこそこれだけ盛大な葬式出して恩返しする事が出来た相撲取りになって良かった。」と感じ以後相撲熱が入るようになった。 続く1972年昭和47年1月場所は7勝8敗に終わったが、3月場所絶好調で、横綱北の富士とこの場所大関獲りとなる関脇長谷川らを倒して12勝3敗、長谷川との優勝決定戦では作戦はまって負けて初優勝お預けとなったこの頃から輪島貴ノ花並んで阿佐ヶ谷トリオ」として注目され、特に魁傑は、そのまじめな性格朴訥とした優しいお兄さん的な顔立ち女学生受けて絶大な人気博した1972年5月場所新三役となる小結昇進して11勝を挙げ輪島貴ノ花三重ノ海と共に次代を担う大関候補として「貴輪三魁」と称された。また、この場所のエピソードとして、9日目に大関大麒麟との取組マゲ引っ張られ反則勝ちとなった一番がある。その後年間三役定着して何度も二桁成績挙げて大関目前とされながらなかなか壁を越えられなかったが、その中で三段目時代から6年付き合っていた一般女性1974年昭和49年9月場所前に結婚したことでそれまで問題だった精神面次第充実していった。同年11月場所には西張出小結12勝3敗、輪島援護射撃もあって相星並んだ決定戦で弱いと評判横綱北の湖との優勝決定戦一方的に突き出して初優勝北の湖とのその1番は詳しく説明すると、硬くなった北の湖立合いから突っ張ったものの少しも足が前に出ず次いで差した左を魁傑に右からおっつけられるとまともに引いてしまい、魁傑この機に乗じて激しく突っ張り一気突き出した、という流れであった。この優勝パレードオープンカーでは、「横綱旗手になる前例はない。」という親方衆反対押し切って輪島旗手務め我が事のように嬉しそうに優勝旗支えた。翌1975年昭和50年1月場所でも11勝4敗の好成績収め、3場所通算3015敗+優勝1回好成績により大関推挙された。なおその2場所前の1974年9月場所で魁傑は7勝8敗と負け越している。年6場所制以降大関昇進力士大関昇進前3場所間に負け越しの場所があるのは他に若羽黒がいる。

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