入門から大関昇進まで
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幼い頃からスポーツが得意で中学校時代は野球をしていた。3年生の時に人数不足から相撲部の助っ人として大会に出場し優勝。大島親方(元前頭19枚目・若浪)を紹介され1962年、立浪部屋に入門した。床山の新弟子と間違われたほど小柄だったため新弟子検査では4場所続けて不合格になり諦めかけたが、兄弟子や親方に励まされてもう1度受けることを決意。少しでも身長の計測で有利になるようにと兄弟子に頼んで頭を殴ってもらい瘤を作り、床山に頼んで髪を持ち上げてもらい検査を受けた。幸運にもその時(1963年7月場所)の検査を担当したのが師匠の立浪親方(元横綱・羽黒山)だったため御目溢しで合格の判を押してもらえた。四股名である旭國は、かつて立浪部屋の力士であった同じ北海道出身の旭國(旭川市出身)の名を継いだもので二代目である。 新弟子時代は同部屋の所属力士が約60人もおり、早起きしなければ土俵での稽古が満足に積めなかった。黒姫山も早起きであったので、どちらが朝稽古の1番乗りになるか競争していた。大部屋なので兄弟子のいじめもあり、早く出世しないといじめによって壊される恐れもあったので一生懸命稽古に励んだ。辛くなって辞めたくても、廃業したら母親が悲しむと思って我慢していた。一方で、弟弟子の黒姫山の証言によると、やはり見習い期間が長かったため新弟子検査合格から半年程度で髷を結い始め、その頃から部屋の幕下とも対等に口を聞いていたという。 幕下時代に盲腸の手術を受けたが傷が癒える前に稽古を始めてしまい、しかも大酒を飲んだことがたたって膵臓を患い苦しまされた。この膵臓炎は結果として「現役時代に10数回入院し、最長で28日間絶食」という苦しい経験をもたらす程に大きな障害となった。膵炎の原因は根本として若浪の付き人を務めていた頃に酒を飲み過ぎたことにあり、若浪自身もそれを後年述懐していた。1969年7月場所に新入幕。しかし1970年3月場所を急性胆嚢炎で13日目から途中休場し、翌5月場所は9勝6敗と勝ち越すも7月場所は4勝11敗と大負けして十両陥落。1971年11月場所に再入幕したが、翌年の1972年1月場所は膵臓炎で初日不戦敗の後休場してしまい再度十両陥落。同年5月場所に再々入幕してからようやく幕内に定着する。 小結だった1975年3月場所は膵臓炎で入院し初日から休場したが点滴が終わると病院を抜け出して稽古をしていた。医師に「こんな体で相撲取ったら死ぬぞ。」と警告されても「土俵で死ねれば力士の本望」と10日目から出場して4勝2敗。背骨の両脇に上下に並ぶ鍼の跡の絆創膏が大きく目立った。翌7月場所で11勝4敗の好成績を挙げて1場所で小結に復帰してからは三役に定着していき、関脇の地位で迎えた1976年1月場所は12勝3敗、大関獲りとなる3月場所は初日から白星を並べていき13勝2敗の好成績で横綱・輪島との優勝決定戦に出場、敗れはしたが大関に昇進した。28歳11ヶ月での新大関昇進は、年6場所制が定着した1958年1月場所以降初土俵の力士では当時最年長であった(現在は琴光喜が記録を保有)。実際に大関昇進が確定したのはこの場所13日目の北の湖戦で11勝目を挙げた一番で、右上手を取って頭を付けた旭國は、北の湖が右から小手に振るところを左外掛けで防ぎ、渾身の力で寄り切った相撲内容であった。立浪部屋からは若羽黒以来17年ぶりの大関。
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入門から大関昇進まで
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山口県岩国市に生まれ、小学校3年生まで岩国市で過ごし、その後は日本大学文理学部に進学するまで下関市で過ごした。小学校の頃は野球に興味を持っていたが、足が遅かったので下関市立日新中学校時代に柔道を始める。この時期は栃若時代全盛期であり、のちに同門の先輩となる初代若乃花をテレビで応援していた。山口県立下関中央工業高等学校では柔道部の主将になった。高校の柔道部の仲間は、相撲大会の時期になるとマワシをつけて相撲大会に出場するのが恒例行事だったが、マワシを付けるのが嫌で3年間一度も参加しなかった。講道館で行なわれた紅白試合で6人抜きを達成して講道館3段と銀盃が与えられるなどの実績を挙げ、特待生として日大に進学した。将来の五輪代表と目された一方その素質を見た後援者の薦めで、花籠親方(前3・大ノ海)がスカウトに動き、1年生の夏休み前に本人を部屋に呼び出し、「相撲部屋に入門する時は、花籠部屋以外には入りません。」なる誓約書を書かせた。本人は相撲取りになる気など更々無く、ならないならば花籠部屋に入る事も無いという気持ちで書いたが、この誓約書で花籠親方が両親を口説き落とし、青森県警の稽古のアルバイトから帰った本人を相撲取りになる様説得した結果、嫌々ながら相撲取りになる事を受け入れ、日大を1年で中退して花籠部屋に入門し、1966年(昭和41年)9月場所で初土俵を踏んだ。 初めて番付に載った11月場所では、序ノ口を7戦全勝で優勝し、翌1967年(昭和42年)1月場所では、序二段で6勝1敗の好成績で、3月場所には三段目に上がった。しかしどうしても相撲に馴染めない為、その年の8月末に部屋を脱走して従兄弟の家に隠れたものの、すぐに追っ手に発見され、部屋に連れ戻された。今度こそ相撲取りを辞める決心を固め、親方に「辞めさせてください」と挨拶したが、「大勢の反対を押し切って相撲取りになったのに、1年で辞めるなら、その人たちに「もう辞めました」と挨拶して来い」と言われ、今更柔道界に戻ることも出来ないと諦め、部屋に残る事にした。三段目でも7戦全勝を記録し、1968年(昭和43年)3月場所で幕下に昇進したが、そこから少し伸び悩み、十両昇進は1970年(昭和45年)1月場所まで11場所を要した。その場所では、場所の直前に風邪を引いた事もあって4勝11敗と大きく負け越し、2場所幕下に下がって再び十両に返り咲いた。またこの年、花籠部屋に輪島が入門してきた。 当初は本名の「西森」(番付では森は木冠に冫人で書かれた)を名乗っていたが、十両に昇進すると「花錦」という四股名に改名。所属する花籠部屋と、故郷岩国の錦帯橋から1文字ずつ取り名付けられた。しかし、本人は花錦は自分には合わないとして嫌ったため、短期間で改名することになり、女将さんによって「魁傑」と命名される。実際には、本人の昼寝中に新しい四股名を女将から複数提示され、寝ぼけながらも別の候補を選んだが、昼寝から覚めると魁傑に決まっていたという。最初は戸惑ったものの、これが昔中国で活躍した武将の名で、勝負師に相応しい四股名であることを知って大いに気に入ったと言う。 1971年(昭和46年)9月場所に新入幕、この場所は7勝8敗と負け越すが幕内にとどまり、11月場所は千秋楽まで8勝6敗と勝ち越していた。千秋楽の日、病床の父親から珍しく応援の電話が入り、電話を切って10分後に母親から「お父さんが死んだ。」との電話を受け、気持ちの整理が付かないまま土俵に上がったものの、黒姫山の強烈なぶちかましに突き飛ばされた。すぐに郷里に戻り、葬儀を行ったが、その時葬儀場に並んだ山口県知事や岩国市長、後援会長や相撲協会などからの花輪が並ぶ盛大な葬式を出せたのを見て、初めて「父親に薦められて相撲取りになったからこそ、これだけ盛大な葬式を出して恩返しする事が出来た。相撲取りになって良かった。」と感じ、以後は相撲に熱が入るようになった。 続く1972年(昭和47年)1月場所は7勝8敗に終わったが、3月場所は絶好調で、横綱・北の富士とこの場所大関獲りとなる関脇・長谷川らを倒して12勝3敗、長谷川との優勝決定戦では作戦にはまって負けて初優勝はお預けとなった。この頃から輪島、貴ノ花と並んで「阿佐ヶ谷トリオ」として注目され、特に魁傑は、そのまじめな性格と朴訥とした優しいお兄さん的な顔立ちが女学生に受けて絶大な人気を博した。 1972年5月場所は新三役となる小結に昇進して11勝を挙げ、輪島・貴ノ花・三重ノ海らと共に次代を担う大関候補として「貴輪三魁」と称された。また、この場所のエピソードとして、9日目に大関・大麒麟との取組でマゲを引っ張られ反則勝ちとなった一番がある。その後二年間は三役に定着して何度も二桁の成績を挙げて大関目前とされながらなかなか壁を越えられなかったが、その中で三段目時代から6年間付き合っていた一般女性と1974年(昭和49年)9月場所前に結婚したことでそれまで問題だった精神面が次第に充実していった。同年11月場所には西張出小結で12勝3敗、輪島の援護射撃もあって相星で並んだ、決定戦で弱いと評判の横綱・北の湖との優勝決定戦で一方的に突き出して初優勝北の湖とのその1番は詳しく説明すると、硬くなった北の湖が立合いから突っ張ったものの少しも足が前に出ず、次いで差した左を魁傑に右からおっつけられるとまともに引いてしまい、魁傑はこの機に乗じて激しく突っ張り、一気に突き出した、という流れであった。この優勝パレードのオープンカーでは、「横綱が旗手になる前例はない。」という親方衆の反対を押し切って輪島が旗手を務め、我が事のように嬉しそうに優勝旗を支えた。翌1975年(昭和50年)1月場所でも11勝4敗の好成績を収め、3場所通算で30勝15敗+優勝1回の好成績により大関に推挙された。なおその2場所前の1974年9月場所で魁傑は7勝8敗と負け越している。年6場所制以降、大関昇進力士で大関昇進前3場所間に負け越しの場所があるのは他に若羽黒がいる。
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