入門から十両昇進まで
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同期入門は「花の六三組」と言われる横綱3代目若乃花(のちのタレント花田虎上)、貴乃花、大関魁皇、小結和歌乃山、前頭力櫻(のちのプロレスラー力皇猛)、十両須佐の湖、鶴ノ富士、琴岩国、琴乃峰など。序ノ口では貴花田(のちの貴乃花)に勝ったが、琴乃峰にプロ初黒星を喫している。相撲教習所に入学したばかりの頃は来日から日が浅いことで若貴ブームのことを理解していない曙ですらも若貴兄弟との格の違いを思い知らされたといい、自身が基礎の稽古を行っていた際にはもう既に若貴兄弟は三段目や幕下の地位にいる教官と申し合いをしていたという。教習所時代には和歌乃山の強さにも驚いていたようであり、教習所の生徒達でトーナメント戦を行う度に優勝していたと述懐している。後年のインタビューでは「中学横綱のタイトルを引っさげて入ってきて、体はさほど大きくないんだけど、もう手がつけられないほど強いの。和歌乃山は入門して半年くらいで、教習所の先生たちと同じくらいの番付まで出世していました。中学を卒業して入門した力士で、そんな人はおそらくいないんじゃないかな?」と当時についての感想を述べていた。新弟子時代にはまだ相撲歴が浅かったこともあって場所入りの度に東関から「せいぜいがんばってくれよ。負けても仕方ないよ。相手のほうがちっちゃい時から相撲を取ってるんだから」という趣旨の冷やかし文句を浴びせられたという。 三段目時代の1989年3月場所前、当時屈指の大部屋だった伊勢ヶ濱部屋に出稽古に出かけた曙は、1月場所で10勝をあげ自己最高位の前頭筆頭まで躍進した若瀬川に胸を借りた。相手が三段目と甘く見ていた若瀬川は2、3回軽く四股を踏んだだけで、仕切って待っている曙の前に立つと両手を広げて大きく胸を出した。曙は若瀬川の胸をめがけて頭から思い切りぶちかますと若瀬川は仰向けにひっくり返り、腰を痛めて病院に運ばれる羽目になった。初土俵からわずか一年で幕内力士を「病院送り」にした曙はこの場所6勝1敗、翌場所は早くも幕下に昇進した。ちなみに若瀬川は7日目まで休場、翌日から出場したがわずか1勝しかできず、遂に三役の座を手中にすることはなかった。 2mを超える体格を生かす技術を身に付けるために、東関は積極的に出稽古させた。出稽古先では佐渡ヶ嶽(第53代横綱琴櫻)から「小さい力士相手には、鶏を追うようにいけ」と指導を受けた。そうした努力と指導によって、小兵相手でも苦にしない、長いリーチからの伸びのある強烈な突き押しが生まれた。
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入門から十両昇進まで
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/23 16:40 UTC 版)
父は国鉄の駅長を務めていたので夜勤が多く、病気がちな母を助けるために姉と二人でよく家事を手伝っていたという。小学2年生から柔道を行っていたが、中学入学時に90キロに達した体格を生かして柔道の大会で活躍したため相撲を志すようになったという。中学2年生のときに力士を志して両国へ出てきたが立浪部屋(羽黒山)に断られ、時津風部屋に行くと時津風(双葉山)は不在、3つめに訪れた二所ノ関部屋で二所ノ関(佐賀ノ花)が入門を認めてくれた。1967年5月場所で初土俵。幕下時代には生活態度を巡って兄弟子と口論になって反発した末に一旦髷を切って脱走したが直後に二所ノ関から寛容な態度で説得され、これを機に熱心に稽古をするようになった。1973年の9月場所と11月場所、幕下で2場所連続全勝優勝で十両に昇進。本名の「垂沢」から、兄弟子の大関・大麒麟が若手時代に名乗っていた四股名である「麒麟児」に改名。ちなみに十両昇進年齢が20歳以下なら「麒麟児」、21歳以上なら「海山」を名乗らせるつもりだったらしい。実は1973年9月場所が始まる数日前、一進一退で中々出世できないことに見込みがないと感じて家族に廃業を決意していることを明かしており、もしその9月場所で優勝しなかったらそのまま廃業していたとのことであり、自分がこれほどの力を発揮できたのは辞めると決めて吹っ切れていたためであると後年述懐している。
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