入門〜大関昇進まで
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室蘭市立本室蘭中学校卒業後の1976年3月場所、本名の千葉で初土俵。1978年1月場所、幕下昇進を機に北天佑勝彦と改名。幕下時代の1979年7月場所では三保ヶ関部屋の力士が流行性肝炎に多数感染し、北天佑もその一人で初日から休場するも8日目から出場している。1980年3月場所、東幕下2枚目の地位で7戦全勝の好成績を挙げて幕下優勝を果たし、翌5月場所に19歳で十両昇進。十両を3場所で通過して同年11月場所に20歳で新入幕。入幕3場所目の1981年3月場所では横綱・若乃花から初金星を獲得。翌5月場所では9勝6敗で初の三賞(敢闘賞)を受賞し、7月場所で新三役(小結)昇進。以後3場所連続で小結を保つも、同年末にはバラエティ番組の収録中に怪我をしたことによる休場のため一度は幕尻まで下がる。しかし徐々に番付を戻し1982年9月場所では若乃花、千代の富士の両横綱から金星を獲得し10勝5敗の成績で2度目の敢闘賞を受賞した。翌11月場所で小結に復帰。その場所では初日に千代の富士を破って8勝7敗と勝ち越し殊勲賞を受賞。さらに新関脇の1983年1月場所で11勝4敗。3月場所は12勝3敗の成績を挙げ、初の大関挑戦となった5月場所では初日から12連勝し14勝1敗で初優勝を果たした。特に優勝決定の一番は北天佑の「勇み足」ではないかと物言いが付き、北天佑の足が出るのと出羽の花の体が崩れるのが同時という判定が下った末に北天佑が取り直しの一番で左に変化して勝利を掴んだものであった。これにより当時の大関昇進目安を大幅に上回る37勝8敗となり、場所後の理事会で大関昇進が決まった。因みに優勝した場所は新大関に朝潮がいたが、新大関がいた場所で関脇以下の優勝が見られた事例は、戦後の15日制下では史上3例目。
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