入門から幕内上位
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/01 05:05 UTC 版)
「朝潮太郎 (4代)」の記事における「入門から幕内上位」の解説
高知小津高時代から相撲を始めた。父は捕鯨船の砲手として長い航海に出る生活で、父と邂逅するのは年に2回だけだったという。小学校時代は常に成績が学年トップであり、一方で小学校卒業時には体重が80㎏を超える巨漢であった。当時の佐喜浜町は人口3000人の小さな町で、「勉強するなら大きな町で」と、中学時代から高知市に越境入学した。12歳にして下宿生活を送り、中学時に体重は100キロを超えたという。体が大きいことで無理矢理に相撲部に誘われたのが、相撲を始めるきっかけとなった。当時人前で廻し姿になって尻を見せるのが嫌で仕方が無かったが、この頃から「大ちゃん」と呼ばれるようになった。高校はアパートでの1人暮らしをしながら通い、決して強豪ではない相撲部で気楽に過ごし、進学先の近畿大学の相撲部へは強かった選手のおまけで勧誘された。当時1年生でひよっこ部員であった長岡はコーチの吉村道明を稽古場で負かし、吉村はショックを受けてすぐにコーチを辞めてしまった。近畿大学で2年連続してアマチュア横綱のタイトルを獲得。当時のエリートぶりから「角界の江川クン」と呼ばれた。進路について悩んでいたが、相撲に関わらない学生たちとの食事会が切っ掛けで自分にはビッグタイトルを取った相撲があることを再認識し、角界入りを志すに至った。 最終タイトル8冠というその好成績から幕下付出が認められ、1978年3月「今度はプロの横綱を目指します」と当時古参幕下力士の少なかった高砂部屋に入門。後に本人が語るところによると、5代高砂は長岡の両親に対しては「息子さんをくれ」の一言しか言わなかったそうであるが、両親は「離島(徳之島)出身の朴訥なもの言いが、私ら高知の田舎者には合うのではないか」と評していた。新人をいじめるのは古参の幕下と相場が決まっていたため相撲部のマネージャーに所属幕下力士の数を調べさせ、結果当時の高砂部屋には幕下力士2人しかいないと知って「これなら大丈夫だ」と決意した。当時すでに高齢であった高見山大五郎や富士櫻等関取に古参が多かったのですぐに自分が部屋頭になれると思いきや、2人が30代後半まで関取として土俵に上がり続けたため大変だったと話していたという。同時に、当時珍しかった大卒力士をその2人が周囲のやっかみなどから守ってくれたと感謝している。また、『多国籍企業について』という卒業論文を書いた長岡としては、外国人力士のいる高砂部屋は自分に合っていると判断することができたようである。なお、学生時代は相撲以外にも数学系を得意とし成績優秀であり教師を志していたというが、相撲部の活動を優先して教育実習への出席を泣く泣く諦めたという。高砂部屋の他にも時津風部屋、出羽海部屋からも勧誘を受けていたとのこと。 初土俵から所要2場所で十両昇進。昇進の際に兄弟子の高見山から彼のタニマチである丸八真綿の布団を贈られた。初土俵から5場所目で入幕。入幕2場所目で大関・貴ノ花を破り、初の敢闘賞を獲得。この場所で初土俵から初めての幕内2ケタ勝利までの最速タイ記録を果たした格好となった(年6場所制度下、所要6場所)。最速タイ記録に当初は本名で取ることを希望していたが先代朝潮太郎だった師匠から高砂部屋では最高の四股名である「朝汐太郎」を受け、襲名する。4代目の朝汐誕生である。しかし早くもプロの壁にぶつかり、翌1979年3月場所、上位陣との連日の対戦で初日から8連敗を喫する大不振に陥り、やっと手にした白星は、9日目の大関・旭國休場による不戦勝だった。結局この場所は5勝10敗に終わり、それから数場所も負け越しの連続で幕内下位に低迷し、影が薄い存在と化していた。この頃、相撲に自信をなくし廃業してたこ焼き屋でもやろうか、と考えていたところを兄弟子の富士櫻に叱咤されてもいる。 その後、徐々に幕内上位に返り咲き、1980年(昭和55年)3月場所11日目、横綱・北の湖との2度目の対戦で、朝汐は北の湖が出たところを豪快な引き落としで破り初金星を挙げ、この場所は10勝5敗で殊勲賞を獲得。これを皮切りに朝汐は上位陣から恐れられることになる。以後朝汐は輪島、三重ノ海、若乃花、千代の富士といった横綱陣との対戦では度々土をつけ、特に当時の実力第一人者である北の湖との対戦では、仕切りから横綱の計算を狂わせ、ファンはおろか当の上位力士でさえも驚くばかりの強さを発揮し、当時の幕内力士では唯一北の湖に通算13勝7敗(不戦勝1含む)と歴然とした差で勝ち越したことで話題を呼んだ。1981年5月場所8日目の北の湖戦でも全勝の北の湖に土をつける活躍を見せ、この時のNHK大相撲中継の視聴率は夏場所のものとしては2017年3月場所終了時点で最高となる38.2%であった(ビデオリサーチ調べ)。同年11月場所は12勝3敗の好成績で千代の富士と優勝決定戦に出場するが、敗れて初優勝を逃した。翌1982年1月場所は大関挑戦の場所であったが、6勝9敗と負け越し、失敗に終わった。1982年5月場所は13勝2敗の好成績で再び千代の富士と優勝決定戦に出場し、敗れてまたしても優勝を逃した。翌1982年7月場所は再度大関挑戦の場所であったが、8勝7敗に終わり、またしても失敗に終わった。このように素晴らしい成績を挙げながらも優勝・大関には手が届かず、3度あった優勝決定戦ではあと一歩のところで及ばず、勝敗の差が激しく連勝か連敗が目立ついわゆる「連(ツラ)相撲」も特徴であった。この頃は大関挑戦の場所を迎えては負け越し(あるいは最小の勝ち越し)て失敗、数場所後に大勝ちして再(々)度大関挑戦の繰り返しであった。 特筆すべきは1983年1月場所である。この場所の朝潮は破竹の勢いに乗り、北の湖を掬い投げでひっくり返し、若乃花を土俵下に突き飛ばして引退に追い込み、千代の富士も押し出して横綱を総なめにし、琴風以外の大関も倒す大活躍を見せつけた。結果は琴風との優勝決定戦となり敗北が、大物同士がひしめき合ったこの場所で14勝1敗という優勝同然の成績を挙げた朝潮の活躍は、相撲内容も優勝した琴風以上のもので、横綱キラー朝潮の強さをまざまざと見せつけた場所であった。関脇以下の力士が横綱を3人倒すという快挙は当時では非常に稀で、歴史を辿っても過去に4人(初代若乃花:1953年1月場所、先代朝潮:1955年1月、富士櫻:1974年1月場所、栃赤城:1979年11月場所)しかいなかった。 翌3月場所、東関脇の地位で再び大関獲りとなったが、3場所前の1982年11月場所が平幕(東前頭筆頭・9勝6敗)の地位だった為、先場所の同年1月と同様に終盤まで優勝争いに加わる好条件が求められた。同場所は7日目に出羽の花に敗れ1敗。その後終盤まで横綱千代の富士と優勝を争ったが、13日目千代の富士に敗れて2敗、14日目北天佑にも連敗し3敗に。そして千秋楽、「隆の里(当時大関)戦で敗れたら大関は見送り」との報道も流れる中、なんとか勝利して結果12勝3敗の成績を挙げ、ようやく遅咲きながら大関の座をついに射止めた。都合6度の大関挑戦を経験し、高砂から思うように大関昇進を果たせないことを指して「朝潮という四股名をやったのは大失敗。黒潮にしておけばよかった」と嘆かれたこともあったが、その末に昇進を果たし、まさに朝潮は最も脂の乗った時期に差し掛かった。
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