角界復帰〜大関昇進へ
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しばらくの間、鹿児島県や兵庫県神戸市、さらに満州など各地を転々としていたが、翌年、白川義則陸軍大将の書を持参して大日本相撲協会へ復帰を要請した。当初は門前払いを受けたが、父親が「大関になってくれ」との遺書を残して自殺したことや、師匠・二十山と親しい荒汐に加えて、右翼幹部である頭山満・杉山茂丸などの有力者が清水川の角界復帰を後押しする動きを見せたことで、協会もようやく清水川の復帰の是非を問う評議会を開催した。当初、評議会出席者の大半は清水川の復帰に否定的だったが、出羽海の「身を殺して嘆願する例は将来にも有るのか」の発言によって大勢が変わり、1928年10月場所において幕下筆頭格で復帰を認めることが満場一致で承認された。復帰に際して下の名を本名の「米作」から父の名である「元吉」に改めた。復帰後しばらく経った1932年に春秋園事件が勃発している。この事件では首謀者の天竜三郎らの主張に同調し、鏡岩善四郎や朝潮供三郎など多くの力士が相撲協会を脱退し、清水川自身も一時は革新力士団に同調したが、最終的には、4年前に自らの角界復帰を許してくれた相撲協会と師匠・二十山の恩に報いる形で、協会残留を選んだ。事件直後の1932年2月場所は8日間興行となったものの、清水川は関脇として8戦全勝で幕内最高優勝を果たした。この活躍により、同年3月場所終了後に大関昇進が決定した。かくして亡き父親の大関昇進の願いは叶えられた。
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