角界時代
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/11 18:52 UTC 版)
福井県の勝山市にて農家の長男として生まれる。農家の生まれであることから幼少期より米をたくさん食べて大きく育ち、中学2年の身体検査では182cm、82kgを記録した。同時に大きな体がコンプレックスになっており、勉強も苦手だったことと合わせて周囲からはからかわれがちであった。幼少期は夕方から相撲を見て、夜はプロ野球の巨人戦を見るのが嶋田の世代の日常であった。嶋田が好きであった力士は「栃若」ではなく朝潮であり、嶋田は勝負に淡々としていたところやどこかほんわかした雰囲気を好きな理由として挙げている。朝潮が好きな力士であったため、入門が内定してからも高砂部屋の方が良かったと思うことがほんの少しだけあった。いわゆる「アンチ大鵬」であり、大鵬戦の際は柏戸、栃ノ海、佐田の山など対戦相手の方を応援したという。 当時の時代柄もあったが、小学校高学年になると学校を休んで田植えの手伝いを行うことを家族から課せられた。夏になると葉タバコの剪定を行い、足元にマムシがとぐろを巻く風を通さない畑の中で作業した。タバコの匂いが手に付くため嶋田少年は当時タバコに興味を持たず、タバコを吸ったのは50歳を過ぎてから5、6年の間だけである。 嶋田は後に「学校が好きだったわけじゃないけど、理不尽な気がして、自分が不憫で悔しかったのを覚えています」と家業の手伝いに対する思いを語っている。小学校時代から砲丸投げにリレーの選手、中学校に入ると柔道部や野球部と、少年時代はほとんどの運動部の試合に駆り出された。なかでも相撲は嶋田本人にとって楽しく、小学5年生からは中学生に負け無しであった。一方野球部の活動に関しては父も娯楽としか見ておらず否定的であり、相撲大会に駆り出されるうちに野球部はいつの間にか退部扱いになっていた。後に本人は、体が大きくて左投げであったことから、野球を続けていたらプロになってもっと金を稼いでいただろうと、冗談めかしながら振り返っていた。 嶋田の父は厳格であったが、稲刈りの季節でも秋場所が始まると作業を嶋田の祖父母や母に任せ、嶋田を連れて相撲を見ていた。嶋田の父も相撲の時だけは優しい父親というイメージであったため、相撲は嶋田にとって良い思い出であり、嶋田が相撲の世界に抵抗なく入れた要因となった。 勝山市立北郷小学校卒業後は勝山市立北部中学校へ入学するも、父が床屋で髪を切ってもらっていた際に床屋の店主が二所ノ関部屋後援者に「この辺りに相撲に入れられるような身体の大きい子はいないかな?」と声を掛けられ、父が「うちの息子は大きいよ」と返答したことで二所ノ関部屋の巡業が来た時に二所ノ関部屋後援会が嶋田を連れて行って大鵬に会わせ、大相撲へ勧誘した。嶋田は相撲取りと言えばゴツゴツした厳つい風貌を思い浮かべていたが、均整のとれた綺麗な体をしていた大鵬を見た嶋田は泰然自若としたものを感じた。ちゃんこを食べながら大鵬と話を行っている時、大鵬からある食べ物を勧められたが、それが牛タンであることを知る(これが嶋田が牛タンを生れて初めて食べた時であった。)と、草を食べて涎を垂らしている牛の姿が想像され、途端にえづき、そこから箸が進まなくなった。中学2年の夏休みに20日間の体験入門を経験したが、目に飛び込んだ部屋施設は近代的なビルであり、親方の自室も映画に出てくるような洋館であった。嶋田は3階にある客室で寝泊まりしていたが、朝に4階の稽古場から四股を踏む音が響いて驚いたという。その時関取衆は巡業中であったため留守番していた若い衆としか相撲を取らなかったが、実際に相撲を取るとあっという間に羽目板まで吹っ飛ばされ、その強さを思い知らされた。嶋田の性格的にも、瞬時に勝ち負けが決まり、またすぐにリセットして仕切り直すという相撲のリズムは合っていた。入門後、地元に帰って秋の相撲大会に出れば1回も負けず、賞品の大学ノートが100冊くらい溜まったため、やはりプロで鍛えられるということは凄いと嶋田は思ったという。父は中学を卒業してから入門してほしいと考えており、嶋田に対しても「トボけた考えを起こすなよ!」と釘を刺したが、1963年の暮れに二所ノ関部屋の若者頭が再び勧誘に訪れ、紆余曲折があったが嶋田はその話を聞きたくなかったため友人の家に逃げていた。そんな時に力道山が刺殺されたことを伝える大ニュースを知った。プロレス界を築き上げた人物が、後にプロレスで大成する嶋田の入門の際にこの世を去ることに関して、後に嶋田は「なんか運命的ですね」と振り返る。因みに父も体が大きく村相撲でも強かったため将来は相撲取りになりたかったが、一人っ子なので両親に反対されて断念したという経緯をたどっている。 1963年12月、二所ノ関部屋に入門。入門に際して地元の名士から5万円の餞別を貰った(当時平均的な月給が8000円から1万円程度であった)。新聞にも入門したという報告が掲載されて餞別ももらったので、本人はおめおめとは帰れないと覚悟していた。入門に伴い、中学2年途中で墨田区立両国中学校へ転校した。転校初日に教師から「お相撲さんは大学まで進む気はないでしょう。授業中に眠ってもいいから」と言われたことから学業の指導に差別を感じ、実際に白紙の答案用紙を提出する新弟子もいたことから頭に来て嶋田はこっそり通信教育の教材を取り寄せて相撲と学業の両立を誓い頑張っていたが、結局は兄弟子に見つかって通信教育を中止させられたという。入門当初は部屋に所属力士が80人おり、その中の一人であった大麒麟(当時・麒麟児)などと稽古をして力を付けた。最初はその日その日を過ごすので精いっぱいであったが、力士生活に慣れていくと「20歳までに十両に上がれればいいな」などと目標を持てるようになった。大鵬の付け人をしていたある時、大鵬は嶋田に対して「上の力士が下の者とやるときは、受けて立つ相撲を取れるようにならないとダメなんだ。自分からぶちかましにいくような、みっともない相撲は取るなよ」と進言した。 相撲部屋での生活は、入門前に父の下で過ごした日々より厳しくなく自由があったと嶋田本人は後年振り返っている。相撲教習所で受けた和歌森太郎の授業は本人曰く「俺らみたいな連中にはもったいないよ。あの和歌森先生の授業でも寝ているんだから(苦笑)」とのこと。教習所では礼儀を教え込まれたが、嶋田にとって一番印象的だったのは、ある親方に言われた「もし、今後相撲人気が無くなったとしても、40~50年は今の給与形態でお前たちを養っていけるだけの余裕はある」という話であり、嶋田は後に協会が今の両国国技館を無借金で建てた時に「あの話は本当だったんだ!」と実感した。一方、入門当初は「練習生」扱いであったため、当時の相撲部屋全体の経済水準によるところもあろうが、「練習生3、4人のためにもったいない」と稽古後に体を洗うための湯を沸かしてもらえず、冬でも水を浴びて体を洗った。師匠の事は最初「いつも火鉢の前に座っているかったるいオヤジ」程度にしか思っていなかったが、番付を上げて相撲のことが分かるようになると、自分を自由に破門・廃業させる権限を持つ、生殺与奪の権利を握る人物だと自覚して怖いという意識が生まれるようになった。 16歳の時のある巡業では、移動の際に兄弟子から大鵬の双眼鏡を持って行くよう命じられたが、それを聞き忘れたためその巡業中にかわいがりに遭い、竹刀や青竹、さらに角材で殴られたが「これで俺も一人前の力士だ」と却って自信をつけたといい、かわいがりを行った兄弟子たちも「どうだい、きつかったか? これでお前も一人前だよ」と翌日からは何事もなかったかのように接していた。後年時津風部屋力士暴行死事件を受けて元幕内力士として記者からコメントを求められた際には「全く必要なし、人間がいじけるだけ、金属バットやビール瓶が出てくるようなのはただのイジメ」「かわいがりってのは原因があって、例えば門限を破ったとか、ご法度のタバコとか、やられる人に落ち度があったからで、やる方だって何かがないとやれないですよ」と当時とは正反対の認識を示した。自著でも同様の主張をしていた。 1965年5月場所初土俵の貴ノ花とは、相撲教習所で手を合わせており、負けはしなかったが吊り上げているつもりでも残られたりと独特のしなやかさとバネに手を焼き、当時三段目と幕下を往復していた嶋田は「俺って素質がないのかな」と考えさせられたという。ある時から突っ張りを取り入れ、それが自分に合っていたのか、以降番付を伸ばしていった。入門は嶋田の方が1年ほど早かったが、新弟子時代の貴ノ花には「おう、嶋田!」と呼び捨てにされていた 「天龍」の四股名で1973年1月場所から幕内に16場所在位し西前頭筆頭まで上り詰める。四股名「天龍」は細くてすらっとした当時の嶋田の体型、反骨心のある気質などから、師匠が天竜と重なる所を覚え、関取に上がったらこの四股名を付けようと考えていたという。元々出羽海部屋の四股名であったため部屋付きの10代湊川(後9代二所ノ関)が出羽海部屋へ何度も出向いてようやく許しを得たといい、その天竜からは「お前、間違っても俺の名前を汚すなよ、コノヤロウ!」と面と向かって言われたという。しかし天龍は、「競走馬の名前や、町の中華料理屋の名前のイメージが先立って(苦笑)、その四股名の大きさにまったく気づいていなかったんですよ。のちにだんだん、文献を読んだりするうちに、『龍(竜)』とは中国では皇帝のシンボルとなるような最高の霊獣であるとか、あの『梅常陸』で、大相撲界に一時代を築いた、大横綱常陸山が直々に天竜さんに付けられた四股名だとか、そういうことを知ってあらためてすごさを認識したというのが、正直なところです」と当時を振り返っている。大鵬の引退相撲には関取として参加しており、かつての付け人として面目を保ち恩返しを行うことに成功した。常に先手で突っ張ってそのまま突き切るか叩き込む、攻撃の中に勝機を見いだすような取り口であったが、四つになった時に「こうなったら勝てる」という型がないという弱みがあった、と後に本人が2017年の相撲専門書籍で分析している。 力士時代はおだてられた部分もあったであろうが周囲から「大鵬二世」と称され、それだけの大器として期待されていた。しかし天龍本人は、それが自身の自惚れを生み、勝負に対する執念や相撲に向き合う姿勢が足りていない原因となったと2017年にムックの特集で振り返っている。現役当時、貴ノ花や輪島が砂だらけになって泥臭く鍛錬していたのを見て「ダサいな」と冷めた目で見ていた、相撲を舐めていた自分がいたと、後に自己批判している。1973年5月場所、3勝4敗で迎えた栃東知頼との取り組みから5連敗したのは、勝負に対する執念の無さの表れであったと自ら語っている。一方、1973年5月場所で三役に上がっていればプロレスに行くことはなかったであろうと語っている。因みに「大鵬二世」と称された弟子は6人いると後で天龍は聞いたという 1975年、師匠の死去に端を発する部屋の後継問題(押尾川事件)に巻き込まれる。自身は押尾川親方(大麒麟)の押尾川部屋に入りたかったのだが、金剛正裕が二所ノ関を襲名して継承した二所ノ関部屋に戻され意気消沈し、その後も部屋の力士に稽古相手をしてもらえなくなるなどの仕打ちを受ける。親方に1度反旗を翻したということから部屋の衆から嫌がらせを受けた天龍は「ここにいるのはよくない。俺がいなくなればコミュニケーションをとれる」と考えていた。完全に嫌気がさしていた頃、大鵬と昵懇だった元東京タイムズ記者の森岡理右(後筑波大学名誉教授)と出会い、森岡がブレーンを務めていたジャイアント馬場を紹介され、プロレス転向を決意。1976年秋場所に勝ち越した(東前頭13枚目、8勝7敗)のを最後に廃業し、同年10月全日本プロレスへ入団した。入門に至った背景には廃業前に付き合っていた女性が死去して相撲に対する励みが無くなったのもあり、一説には最終場所で勝ち越して相撲を辞めるのが勿体なく思っていたところ当時の師匠からプロレス入りすることをサンケイスポーツにバラされて引くに引けなくなったという。
※この「角界時代」の解説は、「天龍源一郎」の解説の一部です。
「角界時代」を含む「天龍源一郎」の記事については、「天龍源一郎」の概要を参照ください。
- 角界時代のページへのリンク