同級生の出会いから角界入り
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/30 10:08 UTC 版)
「栃ノ海晃嘉」の記事における「同級生の出会いから角界入り」の解説
1938年3月13日に青森県南津軽郡にてリンゴ園の一家の子として生まれた。6歳の時に父親を亡くしていたために父親の記憶は姿かたちを除いてほとんど残っていないという。中学校進学後は母親とも死別したが、兄弟が多かったことで面倒を見てもらうことができ、高校進学も果たせた。1955年(昭和30年)8月に千代ノ山雅信・栃錦清隆らの一行が青森県大鰐町を巡業で訪れた際に、既に春日野部屋へ入門していた中学時代の同級生・須藤良一に出会い、力士へ憧れる。直ちに若者頭の津軽海伝蔵と栃錦を通して春日野部屋を紹介してもらい、弘前商業高校を3年生の夏で中退して入門、同年9月場所に本名の「花田」で初土俵を踏んだ。なお、花田の高校時代は2年生まで野球部で4番を打ち、3年生から相撲部に転部したといい、本人曰く活躍していたというレベルではなかったとのこと。 新弟子検査時点では身長176cm・体重72.3kgしかなく、しかも体重測定に関しては担当の親方から「もうちょっとだけ足りないからお前、もう一回水を飲んで来い」と再計量を命じられ、これに応じてやっと通過した。このようにあまりにも身体が小さいことから入門そのものを家族から反対され、事後承諾を当てにして須藤に帯同する形で家族や高校に無断で入門を画策した。高校の関係者は突然登校しなくなった花田を心配し、花田が角界入りして前相撲で一番出世を果たしたことを知って驚くが、快く送り出されたという。また、この時代は就職難があり、後年になって本人は「私が通っている高校は商業高校で、進学校でも無かったし、高校を卒業して就職しても、今みたいに大きな会社も少なかったものですから、卒業生のほとんどは個人の小っちゃなお店に就職して、帳面を付けるとかがせいぜいでした。(中略)力士になって東京へ行けば、力士がダメでもまた何か仕事があるだろうって、当時はその程度の考えですよ」と述懐していた。当初から相撲に自信は無かった一方で「少しくらいは通用するんじゃないか?」という気持ちで角界入りしたものの、いざ稽古を行うと実力差を思い知らされて気落ちしたという。また、当時は洗濯が手洗いで、巡業に行ったら寝る間もなく、昼間立ったまま寝る力士が出るほど、生活は過酷だったという。
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