相撲頭取として
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1811年(文化8年)2月14日、参勤交代で江戸に滞在していた松江藩主・松平斉恒の許可を得て現役引退、同時に藩の相撲頭取に任命された。雷電の引退によって、出雲抱え力士は関脇・玉垣額之助ただ一人となった。雷電は藩命によって他藩の力士の勧誘や、玉垣に有利な番付・取組編成のための交渉を命じられるがどれも上手くいかず、玉垣自身も1812年(文化9年)に大関を1場所だけ務めて現役引退を表明した。これによって抱え力士がいなくなったため、雷電は善光寺で引退披露相撲の興行を行い、松代藩主・真田幸専の御前相撲も披露するなど、半現役の状態がしばらく続いた。 1814年(文化11年)には、3年前の火災で被災した報土寺の再建にあたり、藩ゆかりの寺だった縁で雷電が鐘楼と梵鐘を寄贈する。同時に雷電と親交のある狂歌師・蜀山人の提案で相撲をモチーフにした梵鐘を制作して評判を呼んだが、幕閣・本多忠顕に目を付けられる。本多家は元々出雲・松平家と反りが合わないことから、鐘の鋳造について寺の住職などが呼び出され、ついには雷電の相談に乗った贔屓の旦那衆の一人が獄死を遂げた。結局、雷電自身も江戸払いに処せられてしまう。 1815年(文化12年)、49歳となった雷電は巡業も含めて完全に現役を引退する決意を固め、8月12日に初めて上京する際に出世を誓ったとされる白鳥神社で最後の相撲興行を行い、完全に土俵を去った。 雷電はその後も、頭取として抱え力士(当時の出雲藩では大半が江戸籍の出入り力士だった)の世話や藩主との調整、相撲会所での本場所出場の交渉などを行った。この頃は前藩主の松平不昧が病に倒れ、1818年(文化15年)2月場所直前には藩の看板力士だった鳴滝忠五郎が現役死亡するなど、多忙な日々が続く。それでも再編成された番付で小結となった縄張綱右エ門が優勝同点の好成績を挙げて面目を保つと、場所中の雷電は毎日会所で待機し、勝負付きが刷り上がると早馬で不昧の元へ届けていた。しかし、場所終了後の4月24日に不昧が亡くなると、同年秋から翌年にかけて出雲力士の有馬山龍右エ門の「小野川」襲名を巡って久留米藩と対立、雷電は双方の要求の板挟みとなり、結局襲名を短期間で断念せざるを得なかった。さらに、藩主・斉恒自身が相撲に熱心で無かったこともあって抱え力士を他藩へ移籍させ始めると、雷電も命に従って各藩に力士移籍の交渉を行った。また、藩に掛け合ってそれまで世話を掛けた弟子達に対して化粧回しなどを分け与えていた。 1819年(文政2年)3月28日、3月場所開催分の給金7両を受け取って相撲頭取を辞職、同時に松江藩との縁を切った。それでも4月11日には、斉恒の参勤交代出発の日に雷電をはじめとする旧抱え力士が集まり、品川まで見送った。
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