相撲頭取としてとは? わかりやすく解説

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相撲頭取として

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/10 00:02 UTC 版)

雷電爲右エ門」の記事における「相撲頭取として」の解説

1811年文化8年2月14日参勤交代江戸滞在していた松江藩主・松平斉恒許可得て現役引退同時に藩の相撲頭取任命された。雷電引退によって、出雲抱え力士関脇玉垣額之助ただ一人となった雷電藩命によって他藩の力士勧誘や、玉垣有利な番付取組編成のための交渉命じられるがどれも上手くいかず、玉垣自身1812年文化9年)に大関を1場所だけ務めて現役引退表明した。これによって抱え力士がいなくなったため、雷電善光寺引退披露相撲興行行い松代藩主・真田幸専御前相撲披露するなど、半現役の状態がしばらく続いた1814年文化11年)には、3年前火災被災した報土寺再建にあたり、藩ゆかりの寺だった縁で雷電鐘楼と梵鐘寄贈する同時に雷電親交のある狂歌師蜀山人提案相撲モチーフにした梵鐘制作して評判呼んだが、幕閣本多忠顕目を付けられる。本多家は元々出雲松平家反りが合わないことから、鐘の鋳造について寺の住職などが呼び出されついには雷電相談乗った贔屓旦那衆の一人獄死遂げた結局雷電自身江戸払いに処せられてしまう。 1815年文化12年)、49歳となった雷電巡業含めて完全に現役引退する決意固め8月12日初め上京する際に出世誓ったとされる白鳥神社最後相撲興行行い、完全に土俵去った雷電その後も、頭取として抱え力士当時出雲藩では大半江戸籍の出入り力士だった)の世話藩主との調整相撲会所での本場所出場交渉などを行ったこの頃は前藩主松平不昧が病に倒れ1818年文化15年2月場所直前には藩の看板力士だった鳴滝忠五郎現役死亡するなど、多忙な日々が続く。それでも再編成され番付小結となった縄張綱右エ門が優勝同点好成績挙げて面目を保つと、場所中の雷電毎日会所待機し勝負付き刷り上がる早馬不昧元へ届けていた。しかし、場所終了後4月24日不昧亡くなると、同年秋から翌年にかけて出雲力士有馬山龍右エ門の「小野川襲名巡って久留米藩対立雷電双方要求板挟みとなり、結局襲名短期間断念せざるを得なかった。さらに、藩主・斉恒自身相撲に熱心で無かったこともあって抱え力士を他藩へ移籍させ始めると、雷電も命に従って各藩力士移籍交渉行ったまた、藩に掛け合ってそれまで世話掛けた弟子に対して化粧回しなどを分け与えていた。 1819年文政2年3月28日3月場所開催分の給金7両を受け取って相撲頭取辞職同時に松江藩との縁を切った。それでも4月11日には、斉恒の参勤交代出発の日に雷電はじめとする抱え力士集まり品川まで見送った

※この「相撲頭取として」の解説は、「雷電爲右エ門」の解説の一部です。
「相撲頭取として」を含む「雷電爲右エ門」の記事については、「雷電爲右エ門」の概要を参照ください。

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