親方時代
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引退後は短期間だけ年寄・山科を襲名した後すぐに年寄・14代武蔵川を襲名し、1981年8月には出羽海部屋から分家独立して武蔵川部屋を創設した。 部屋の指導者としては横綱・武蔵丸のほか、武双山・出島・雅山という3大関を含めた12人の関取を育て上げ、一時期は角界最多数の関取を擁して一時代を築いた。往年は稽古場においてグシャグシャに折れる程竹刀を振るうスパルタぶりで知られていた反面、土俵外では明るく気さくな人物であったという。一方で書籍によっては「"喜怒哀楽"の"怒"の顔しか見せることのなかった『昭和のオヤジ』」と親方時代を評する声も掲載されている。協会員としては役員待遇・監事(現:副理事)・理事と出世していき、2006年2月からは事業部長を務めた。その後、大相撲力士大麻問題を始めとした不祥事が相次ぎ、その処遇を巡って北の湖理事長が辞任したことを受け、2008年9月8日に第10代日本相撲協会理事長に就任した。同年、前2007年の時津風部屋力士暴行死事件を受けてそれまで閉鎖的だった協会に外部役員を招聘し、2015年1月現在でも外部役員の招聘は継続されている。 2007年6月16日には、2002年の北の富士以来5年ぶり史上8人目となる還暦土俵入りをホテル・グランパシフィック・メリディアンで行った。太刀持ちは出島、露払いは雅山が務めた。 2010年に発覚した大相撲野球賭博問題では、弟子の雅山が野球賭博に関与したために特別調査委員会から謹慎処分を受け、本人もその監督責任として特別調査委員会から同年7月4日から25日までの謹慎を勧告されたため、村山弘義に謹慎期間中における理事長代行を委嘱した。同年7月19日には高血圧で入院していたことが判明し、その後も胃癌の手術を受けて理事長職への復帰の見通しが立たなかったため、当初の委嘱期間が終了して以降も村山がそのまま理事長代行を務めた。同年8月5日に理事長職へ復帰したものの、同年8月12日に行われた臨時理事会で正式に理事長辞任を表明し、後任には17代放駒親方(元大関・魁傑)が就任した。 2010年9月30日に、年寄名跡は交換せずに武蔵川部屋の部屋付き親方である18代藤島親方(元大関・武双山)に部屋を譲渡する形で武蔵川部屋は藤島部屋と新たに名称が変更され、14代武蔵川は部屋の師匠の座から退いた。
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親方時代
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春日野や二子山などが居並ぶ前で、理事会にはいつも遅刻、その上「血糖値が低くなるから」と言っては着物の袂からおにぎりやゆで卵を出して食べていた。 軍役経験があることから部屋持ち時代は稽古の後に弟子に軍歌を歌わせていた。そんな玉乃海は現役時代より初詣には靖国神社の参拝を行っていた。 停年退職後は戦友の墓地やガダルカナル島を訪問する予定だったという。
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親方時代
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2007年6月に武蔵川部屋創立25周年パーティーが開催され、その席で師匠の武蔵川が還暦土俵入りを行なったが、元横綱が露払い・太刀持ちに起用されることが多いにもかかわらず、元横綱の武蔵丸は起用されず、実際に起用されたのは露払いが雅山、太刀持ちが出島だった。 2010年2月4日、第68代横綱・朝青龍が度重なるトラブルに責任を取り、突然現役引退を表明。その朝青龍が引退記者会見で思い出の一番に、「両親の目の前で横綱武蔵丸を倒した相撲(2001年5月場所初日)」を述べた事に触れ、当の武蔵丸本人は「そうだったの。今まで何十番、何百番と相撲取ったけど、その一番と言われたら嬉しいよね。でもこういう形で引退するのは、今も信じられないし大変残念だ」と神妙な面持ちでコメントしていた。 引退後240キロあった体重は、夫人の協力有ってダイエットに成功し150キロまで減った。しかし武蔵川部屋を再興してからは弟子に稽古をつけるために体重を少しずつ元に戻している。 部屋創設後、ハワイ出身者であることから弟子集めのパイプを持っておらず大変苦労したと言い、相撲未経験者や運動未経験者などを勧誘せざるを得ないことなど思いの丈をテレビ番組で語っていた。 感傷的な場面が苦手なため、父の日や誕生日のプレゼントはいらないとしている。 自身が再興した武蔵川部屋では、 琴剣の著書『相撲めし』(扶桑社)によると、具材の味が引き立つシンプルなちゃんこが特色となっている。また、自身は甘辛い醤油味の鶏肉の照り焼きがお気に入り。 2019年2月、Sports Graphic Number(スポーツ雑誌)の企画で、第66代横綱・若乃花(現・花田虎上)とのスペシャル対談を行う。現役時代はライバル同士で挨拶を交わすのみで、若乃花は「アメリカ文化に憧れていたから、本当はもっと親方と話をしたかったけど、勝負が有るし情が移るのは良くないと思っていた。だから今、やっと話ができるのが嬉しい」とのコメントに、武蔵川は「若乃花は逃げないで当たってくるから、やり易かった。でも小さくて嫌だったよ。よく動くから体を起こすまで時間がかかるんだもん」と笑顔で現役時代を懐かしんでいた。 平成最後の2019年4月30日から新天皇即位の5月1日にかけて武蔵川部屋Fabebookの投稿で自らの新弟子時代、現役時代の思い出、そして本名であったフィアマルのマルを取った四股名が帰化によって日本人としての本名となったこと、平成25年に武蔵川部屋を再興したことなどを振り返り、「平成元年に18歳で来日してからのこの人生の変化!数えきれない程の出会いに恵まれ、今があります。」とその感慨を語っている。
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