年寄として、11の借株
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/23 16:16 UTC 版)
「若獅子茂憲」の記事における「年寄として、11の借株」の解説
引退後最初に襲名した鳴戸から、1986年1月に年寄・峰崎に名跡を変更すると同年9月には荒汐を名乗り、さらに翌年以降は小野川など年寄名跡をすべて借株で襲名し、その総数は11に達した。最終的に廃業するまでの短期間は、当時、元大関・小錦八十吉が取得していた佐ノ山の株を借りていたが、借りる直前の1995年11月場所中、同部屋の隆三杉が引退し、年寄・藤島を襲名したため、隆三杉引退の時点で廃業の可能性もあり、一旦は、理事会で廃業が決まりかけたが、佐ノ山への名跡変更が承認された。 引退に際しては、同門の二所ノ関一門から始まり、時津風→出羽海→高砂と各一門から借株を渡り歩いた。空き名跡が当時なかったためか、唯一、立浪・伊勢ヶ濱連合(現在の伊勢ヶ濱一門)から名跡を借りることはなかった。千賀ノ浦を名乗っていた頃に、春日野部屋に挨拶に来た際に、同部屋の親方衆から「あいつの名前、今、何だっけ?」と言うやり取りがあったというエピソードが残っている。また、同時期にやはり借株を続けていた親方には元幕内・吉の谷彰俊がいて、若獅子の千賀ノ浦時代と竹縄時代に名跡変更に関わっている。 名跡を借りていた期間は名跡の持ち主の引退も関わってくるので短い時には4ヶ月~8ヶ月前後だが、一門の株を借りていた関係もあってか、鳴戸、湊川、藤島を名乗っていた頃は1年以上、名跡を借りていた。特に、最初に鳴戸を借りていた時は襲名から隆の里俊英引退まで、親方生活13年間で最長の実に2年9ヶ月、親方時代晩年、藤島を名乗っていた時は師匠交代直後で、名跡の取得者も正式に決まっていなかったのか、それに次いで、長く、2年8ヶ月襲名していた。一門外では竹縄の株も吉の谷の名跡変更まで1年間、名乗っていた。 また同じ一門であっても、1年以内の借株に留まることもあった。花籠の際には後に花籠部屋を再興する太寿山忠明の引退(1991年5月場所限り)によって名跡変更が決まったものである。さらに芝田山の際も、取得者である大乃国康が引退(1991年7月場所中)し、横綱特権として5年期限付きの年寄・大乃国を襲名している期間中、暫定的に借りていたという事情があった。また、当時の師匠二子山親方と実弟で弟弟子の藤島親方が名跡交換、両部屋を吸収合併することになり、その段階で廃業も考えたと言うが、先師から「二子山を助けて欲しい」と促され、師匠の定年後、藤島に名跡変更、佐ノ山襲名、峰崎部屋移籍まで、二子山部屋付となったという。
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