定年後
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/05/18 13:53 UTC 版)
1974年、湯浅は65歳となった。CNRSの定年は研究長以外は65歳と定められていた。湯浅の実績は研究長となるのに十分なものだったが、当時のCNRSの人員縮小政策のために研究長になることができなかった。そこでCNRSの計らいで、湯浅は特例で名誉研究員となり、定年後も研究を続けられるようになった。 1976年、「永年にわたるフランスでの学究生活」と「日仏文化交流に貢献した」ことに対して、日本の紫綬褒章が贈られた。 1977年、原子核構造国際会議に出席するため、10年ぶりに日本に帰国した。湯浅は手術後の体調が思わしくなく、食事を満足にとることもままならない状態だった。その不調ぶりは傍目からも分かる程度であったため、久しぶりに湯浅に再会した日本の友人を心配させた。その体調の中で、湯浅は会議の他、日本各地で講演し、また、友人や教え子らの訪問も多く、精力的な日々を送った。 フランスに戻ってからは、実験の他に、日仏共同研究の計画にも取り組んだ。日仏共同研究の実施には困難な点が多く、湯浅は日本の担当者である柳父琢治と電話や手紙で何度もやり取りをした。体調は1979年ごろからますます悪化していったが、共同研究が実現できなくなってしまうからと、入院は断固拒否し、食事療法などで対処しようとしていた。 しかし1980年1月、湯浅の体調の異常は周囲から見て明らかになってきたため、30日、知人の手によりパリ郊外のアントワーヌ・ベクレル病院への入院の手続きがとられた。このときも湯浅は救急車の中から窓をたたき、「降ろしなさい」と言い抵抗した。 入院後、湯浅の体調は急激に悪化し、2月1日には危篤状態となった。一方、日仏共同研究はその前日にフランス政府から正式な許可を得ることができた。東大原子核研究所教授の坂井光夫は渡仏した際にそれを伝えるため、2月1日に病院に駆け付けた。坂井が湯浅に、フランス政府の許可が得られたことを知らせると、意識を失っていたかに見えた湯浅は目をあけてうなずき、何かを言おうとして口を動かした。そして同日の午後4時25分に70歳の生涯を閉じた。
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