定年退官後
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平成5年(1993年)3月に東北大学を定年退官し、東北大学名誉教授として化学史の研究を行う。元東北大学総長小川正孝が明治41年(1908年)に発見を報告したもののその後顧みられなくなっていた新元素ニッポニウムの実在を突き止め、それが現在でいうレニウムであったことを立証し、2008年(平成20年)化学史学会学術賞を受賞した。この研究は国内で再々テレビ、新聞等に紹介されただけでなく、海外でも評価が高い。英国BBC放送ホームページの元素事典でも取り上げられた。 社会的活動としては二男のインフルエンザ予防接種禍を契機として予防接種の安全及び被害者救済の運動を起こし、20年に及ぶ国家賠償法訴訟に勝訴した。この方面の著書として岩波新書『私憤から公憤へ』(1975初版、1999アンコール版)は多くの反響を呼び起こした。これを契機として1996年「いのちの尊厳を考える会」を設立、会長となる。その活動は『いのちの杜に歌声起こる』(イー・ピックス出版2007)にまとめられている。またエッセイストとして活動、日本エッセイスト・クラブ会員となり、著書に『夕映えの杜に』(イー・ピックス出版2009)などがある。
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定年退官後
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/11 06:18 UTC 版)
1924年、隼三は定年のため退官し、京大名誉教授となる。故郷の伊藤病院で診療活動に当たるため帰郷。隼三が不在の長い間 養父の健蔵と副医院長の野中徳太郎によって経営されていたが、故郷では「日本一の医師、鳥取に帰る」と大評判を呼び、とても慕われた。伊藤家に伝わる芸術家としての家風が隼三にも伝わり、診察の合間地方の芸術文化の育成や発展にも多大な貢献を行う。 しかし、1929年に過労のため急逝。葬儀には勅旨がもたらされたそうである。 地元で長い間敬愛されてきた伊藤病院は、3代目伊藤病院長を継いだ彼の長男・肇により、1931年6月、鳥取市のために寄付され、名を市立鳥取病院と改めた。現在は鳥取県立中央病院として発展している。
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