親方時代~蔵前国技館建設までの苦難
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「出羽ノ花國市」の記事における「親方時代~蔵前国技館建設までの苦難」の解説
現役引退後は年寄・武藏川を襲名し、武藏川喜偉と名乗る。戦前の巡業で満州へ遠征した際に、日本相撲協会が勧進元に対して言い値をそのまま支払う様子を見て愕然とし、経済学や簿記・経理、算盤を学んで協会の財政運営に貢献した。算盤はプライドを捨てて幼児に交じって習ったという。現役時代は大きな活躍が無かった出羽ノ花だが、これ以降は協会の金庫番・知恵袋としての大活躍を見せることとなる。 1945年8月に終戦を迎えた直後、敗戦によって旧・両国国技館が接収されて使用できず、本場所を天候に左右されやすい野外での興行にせざるを得ない間、武藏川の自宅を担保にする(他の親方も自宅を担保にした者が数名いる)などの懸命な資金の工面を行い、その中から蔵前仮設国技館建設資金を捻出した。1949年には日本橋浜町公園に仮設の国技館を建設したが、GHQから取り壊し命令を受けた武藏川は、いったん仮設国技館の外壁を剥がして取り壊したように見せかけ、後で新しい外壁で覆って新築と言い張る苦肉の策を思いつき、実行して同年1月場所・5月場所の興行をやり抜いた。蔵前国技館を建設する際には、神奈川県相模原市のアメリカ陸軍相模総合補給廠で眠っていた旧大日本帝国海軍飛行機工場の廃材に着目し、GHQからの払い下げを受けて念願の鉄筋鉄骨での国技館建設を果たした。この直後に朝鮮戦争による朝鮮特需で鉄の価格が急騰したため、絶妙のタイミングで買い抜けたこととなった。
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