若松部屋・高砂部屋師匠時代
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「朝潮太郎 (4代)」の記事における「若松部屋・高砂部屋師匠時代」の解説
現役引退後の暫くは、年寄・山響を襲名して高砂部屋の部屋付き親方として後進の指導にあたっていた。しかし、10代若松親方(関脇・房錦)が病気で廃業したことに伴い、1990年(平成2年)3月に11代若松を襲名して若松部屋を継承した。山響親方、若松親方時代には、『クイズ世界はSHOW by ショーバイ!!』などのバラエティ番組にも積極的に出演し、独特のキャラクターで視聴者を笑わせていた。 師匠である6代高砂(小結・富士錦)の停年が近づくと、当初後継者とみられていた高砂部屋付きの錦戸親方(関脇・水戸泉)が、諸事情により継げなくなってしまったため、2002年(平成14年)2月5日付で6代高砂と年寄名跡の交換を行い、7代高砂を襲名するとともに、若松部屋の力士全員が高砂部屋に移籍した。この間、幕内・朝乃若、朝乃翔、十両・朝乃涛などの関取を育てた。 引退から日が浅かった頃は自ら胸を出して指導していた。指導者としては突き押しの指導を徹底し、弟子の朝乃山に関しては「朝乃山は正攻法で真っすぐ来ることを前提に相撲を取られる」としつつも「相手に読まれようとも小細工や駆け引きなどしない力士に育てたい」という育成方針を持っている。若松部屋を継承して以降「現役時代に嫌だったことは、弟子にはしない」というポリシーを掲げており、自身が5代高砂から宴席に連れ回されたり稽古中に竹刀で殴られたりした経験を踏まえ、弟子を極力宴席へ連れ出すことはせず、弟子を殴ることもしていない。2017年の夏合宿では力士達にのびのびしてほしいということで、自分は敢えて稽古場を離れて部屋付きに指導を任せるという一面を見せている。 さらに、2000年(平成12年)2月から2008年(平成20年)1月まで、4期8年にわたり日本相撲協会理事の要職を務める一方、朝青龍を横綱に育て、素質や人気から期待されながら果たせなかった自らの横綱昇進の夢を、愛弟子が実現した。本場所開催中(偶数日付)は日刊スポーツの相撲担当評論家として、同誌に解説「大ちゃん 大分析」を連載している(奇数日付は納谷幸喜=元横綱大鵬の「土評」)。2010年(平成22年)1月場所まで、役員待遇委員の職位で審判部副部長を務めていた。 しかしながら、横綱昇進後も絶えることの無い朝青龍の問題児ぶりは、朝青龍本人の責任もさることながら、自身の管理能力の低さに起因するとの指摘があり、ノンフィクション作家の塩澤実信もTVでコメントを求められた際にその点を指摘している。2008年(平成20年)7月に、弁明も兼ねた自著『親方はつらいよ』(文春新書)にて、思いのたけを明かしている。因みに巻末には朝青龍のお詫び文が掲載された。さらに、朝青龍が起こした2007年(平成19年)夏以降の一連の出場停止騒動や、結果的に事実上の解雇とも言うべき引退につながった2010年初頭の暴行事件を巡っては、改めて指導者としての資質が問われた。弟子の力士生命に関わる問題に師匠としての毅然とした態度を示せず、弁明に終始し、対応の不手際が批判されるようになった。この事から同年2月、朝青龍が暴行事件の影響で引退した事に関連して監督責任を問われ、役員待遇から主任へ2階級降格処分になることが決定された。2011年(平成23年)1月31日に委員に復帰し、監察委員を経て、2013年2月に役員待遇委員へ再昇格、生活指導部副部長に就任した。2014年(平成26年)7月場所には貴乃花が検査入院のため場所を全休したことを受けて監察委員長を代行した。後年高砂は「同じモンゴル人で同じように指導していても、朝赤龍は穏やか。やはり、これはもう持って生まれた性格の違いだったとしか言いようがないんです」と話している。 2015年12月9日、満60歳となる還暦を迎え、同年12月21日には高砂の還暦を祝うパーティーを開催、その際に親方は赤い羽織と帽子を着用して現れた。そのパーティーの席上で、高砂自ら「朝青龍という強くて困った横綱を作りましたが、今後は和製(横綱)を作りたい。これが定年までの残された5年の私の夢。至らぬ親方、出来の悪い弟子ですが宜しくお願いします」と苦笑いしつつ関係者らに挨拶した。 2016年7月31日、高砂と同学年(1955年生まれ)で「昭和の大横綱」と呼ばれた元横綱・千代の富士の九重が61歳で死去。その訃報に接し高砂は「最後に会ったのは5月場所の初日。監察室で余りに細くなった顔を見て『痩せたねえ』と声掛けたら『健康管理の為にダイエットしてるんだよ』と強がって返した。治療してる事を一切言わず、弱みを見せたくなかったのだろう。そうやって我を張って生きたのがマイナスになったかも知れないが、我を張らなかったらアイツじゃない。千代の富士らしい生きざまを、最後まで貫いてくれたと思う」と追悼のコメントを述べていた。目線を下げるのが苦手で今一つ人望に恵まれなかった九重にとって高砂は角界における数少ない理解者であったという。 13代東関が死去して東関部屋が八角部屋の一時預かりとなった際、芝田山広報部長は「八角部屋が一門の長」と説明し、事実上一門の名前を冠する自身が総帥ではないことが示された。 2020年3月場所前、高砂部屋の師匠として最後となる大阪場所激励会が2019新型コロナウイルス感染拡大の影響で中止になった。 自身定年前の最後の本場所である11月場所を控えた11月4日、オンライン記者会見で「いい師匠人生。個性を発揮できる力士になってほしい」と大関朝乃山ら弟子の成長を願った。現役時代の一番の思い出には、1985年3月場所に果たした唯一の優勝を挙げた。2010年には弟子の朝青龍が暴行問題の引責で引退するなど不祥事の対応に追われたこともあったが「問題を起こす横綱もいた。落ち着いてきたら朝乃山がタケノコのように伸びてきた。いろんな意味でついている人生」と頬を緩めた。 2020年11月5日、11月場所後の12月9日に定年を迎える身として都内でリモート会見に応じた。「(横綱に)なりたかった。でも、なれなかったからこそ親方になれた。今度は(横綱を)つくってやろうと。問題を起こす横綱もいた。少し落ち着いてきたら朝乃山がタケノコのように伸びてきた」と親方時代を振り返り、自身が育てた部屋の横綱の朝青龍に関しては「あれだけのことをやった。かばうにもかばいきれない。自業自得。本人にそう言っておいて」と切り捨てた。
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