横綱昇進後
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/12 09:15 UTC 版)
9月場所の番付編成会議に先立って行われた理事会で北尾の横綱昇進が正式に決定し、昇進伝達式では「謹んでお受けします。心技体の充実を心掛け、横綱の名に恥じぬよう、稽古に精進いたします」と口上を述べ、横綱土俵入りの型は立浪・伊勢ヶ濱連合伝統の「不知火型」を選択した(指導は佐渡ヶ嶽)。なお、日本相撲協会は1986年5月に吉田司家と絶縁していたことで、明治神宮での横綱推挙式は協会単独で行われ、11月場所前に行われていた司家での奉納土俵入りも廃止された。横綱土俵入りの際の太刀持ち・露払いは、当時の立浪部屋に双羽黒のほかに幕内力士がいなかったため、同門で幕内に定着していた旭富士、板井、魁輝、高望山などが務めた。 こうして「第60代横綱・双羽黒光司」が誕生したが、双羽黒の土俵入りにはせり上がり後に1ヶ所余計な構えが含まれており、その姿から「交通整理」と揶揄され、東西どちらの土俵入りでも足は必ず正面側から出すべき所を何度か向正面側から出したことがあり、これが双羽黒の横綱としての評価を落とす最初の要因になってしまった。さらに、昇進直後に食中毒と虫垂炎で入院したことで体調管理も問題視され、一部マスコミからは「イタイイタイ病」と評されていた。 新横綱で迎えた1986年9月場所は3勝3敗で頸椎捻挫のため途中休場、11月場所は8連勝して中日での勝ち越しを決めるが9日目に土が付き、千代の富士と共に12勝2敗で千秋楽を迎えたことで17場所ぶりの横綱相星対決となったが、あっさり敗れて優勝を逃した。続く1987年1月場所は前場所と同じ中日で勝ち越したものの、9日目に初顔合わせの益荒雄に初金星を与え、10日目にも小錦に敗れて連敗となり、千代の富士と同じ2敗となった。13日目に大乃国に敗れて3敗となり、千秋楽は2敗の千代の富士戦が組まれたが、本割では千代の富士を破って優勝決定戦に持ち込んだものの決定戦で敗れ、またも優勝を逃した。幕内最高優勝が一度も無いまま横綱に昇進したことから、「(千代の富士の一人横綱状態を解消するための)仮免横綱」と呼ばれるなど、実力が正当に評価されないことが多くなった 。 3月場所は9日目を終わって7勝2敗となり、この時点で1敗だった北勝海を追っていたが、10日目から左膝の痛みを理由に休場を発表、多くの批判が浴びせられた。5月場所は10勝5敗と2桁に乗せたが、7月・9月と1桁の勝ち星に終わり、9月場所後の巡業中には付け人が集団脱走する騒ぎが起きた(詳細は後述)。 11月場所は初日から13連勝と勝ち続けて初優勝も期待されたが、14日目の北勝海、千秋楽の千代の富士に連敗して優勝を逃した(千代の富士は全勝で22回目の優勝)。翌年こそ双羽黒が初優勝を果たすと思われたが、同年暮れに起きた突然の廃業により(後述)、幕内最高優勝の夢は完全に断たれた。 横綱昇進後も、結果的に合計3場所(1986年11月・1987年1月・同年11月)で千秋楽まで優勝争いに絡んだものの、その全てで最後は千代の富士に敗れて優勝を逃している。また、肝臓疾患と靭帯損傷が影響したためか、当時の横綱陣の中で双羽黒の成績が最優秀だったことが一度も無く、番付でも必ず西の正横綱か東西の張出横綱に甘んじることになり、その後の騒動によって廃業したことで、東の正横綱の座に双羽黒の名前が載ることは無かった。結果的に最後の出場となった1987年11月場所の優勝予想では5分の4の親方衆が双羽黒の名前を挙げたものの、その予想は見事に外れてしまった。
※この「横綱昇進後」の解説は、「北尾光司」の解説の一部です。
「横綱昇進後」を含む「北尾光司」の記事については、「北尾光司」の概要を参照ください。
横綱昇進後
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/14 09:30 UTC 版)
新横綱の1949年1月場所から高砂部屋の所属となる。この場所6日目の神風戦は相手のまぶたが切れて出血のために取組続行不能とされ痛み分けとなり、この1分があって同部屋で平幕下位の國登を半星差で追う形になったが、千秋楽國登が敗れて逆転、10勝2敗1分で双葉山(1938年1月場所)以来となる新横綱優勝を果たした。 続く5月場所は終盤横綱大関陣に5連敗を喫してやっと勝ち越しの8勝7敗に終わる。皆勤横綱の5連敗は現在でも最多タイ記録である。 1950年1月場所は左足首関節挫傷のため3日目から休場。他の2横綱も照國は4日目から、羽黒山は5日目から相次いで休場し「横綱不在」となってしまう。東富士は7日目から、羽黒山は11日目から再出場するもともに6勝に終わる。前場所1949年10月場所では前田山が「シールズ事件」で引退に追い込まれていたこともあり、横綱のあり方について批判が噴出し、相撲協会でも一度は「連続負け越しか休場で大関へ降格」とする新制度の導入を発表(のち撤回)、大関で連続優勝を果たした千代の山は時期尚早を理由に横綱を見送られることになり、横綱審議委員会の発足へつながっていく。 続く5月場所では前場所の雪辱を期すように3横綱で優勝を争い、東富士1敗-羽黒山2敗で千秋楽結びの一番となり、これに勝って14勝1敗で3度目の優勝を果たす。 1951年9月場所は場所中から急性肺炎による高熱に悩まされ、11日目から3日間土俵入りを休むなど苦難の場所となった。特に12日目の吉葉山潤之輔との一番では医師からも「こんな病身で相撲なんか取って死んでも知らんぞ」と制止されながら、「命に関わっても文句は言わぬ」と誓約書を出して出場。この日の1度目の取り組みは東冨士の怒涛の寄り倒しに軍配が上がったものの物言い。取り直しになるも熱の入った攻防の末に水が入り、再開後、吉葉山の寄りを東冨士がうっちゃり、軍配は吉葉山に上がったがまたも物言い。協議の結果、これ以上取らせるのは不可能と判断され、吉葉山の了承を得て、勝負預りとなる死闘となった。他に9日目関脇栃錦に敗れた1敗があったものの13勝1敗1預で、4度目の優勝を果たす。またこの場所は千代の山の横綱昇進で、羽黒山・照國・東富士と4横綱時代となっており、1938年5月場所以来13年ぶり史上2度目の4横綱総当りも実現したが、東富士は横綱戦3戦全勝を記録している。系統別総当り制のもとでの4横綱総当りは、不戦勝をまじえない純然たるものとしてはこれが最後で、次に実現するのは部屋別総当りとなった1965年9月場所でのことになる。場所後には力道山のオープンカーを借りて優勝パレードを個人的に行い、これが大相撲における優勝パレードの始まりで、1952年1月場所(優勝は羽黒山)以降は日本相撲協会の公式行事として行われている。 1953年9月場所、初日から13連勝で優勝を決め、今度こそ全勝なるかと思われたが、14日目吉葉山に取り直しの末敗れる。千秋楽には鏡里をくだして14勝1敗。これが最後(6度目)の優勝になった。 1954年9月場所、4勝4敗のあと9日目から休場。この場所大関栃錦が初日黒星のあと連勝を続けており優勝を争っており、大関で連続優勝となれば横綱昇進を問われるが、当時はすでに東富士と千代の山・鏡里・吉葉山の4横綱がいて、栃錦をあげれば前例のない5横綱時代が実現してしまい、このために栃錦の昇進が見送られる可能性があった。その気配を察した東富士は14日目に引退を申し出た。栃錦もこれを察し「どうか引退しないでください」と東富士に伝え、東富士も最初は考えたが「栃錦からの申し出で、逆に気持ちが吹っ切れた」と語っている。
※この「横綱昇進後」の解説は、「東富士欽壹」の解説の一部です。
「横綱昇進後」を含む「東富士欽壹」の記事については、「東富士欽壹」の概要を参照ください。
- 横綱昇進後のページへのリンク