横綱昇進まで
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初土俵を踏んだ1939年1月場所4日目、双葉山定次が安藝ノ海節男に敗れて連勝が69で止まった「世紀の一番」を、結びの一番を取る兄弟子の鹿嶌洋起市の世話のために花道の奥で目撃した。「あの相撲をこの目で見られたことは、土俵人生を通じての財産だった」と後年まで語った。 新弟子時代、相模川佶延を贔屓にしていた尾上菊五郎に気に入られていた。後に菊五郎は「春日野部屋にいた『マムシ』はどうしてる?」と聞き、幕内にいる栃錦がそうだと教えられて驚いたという。 兄弟子の付き人に付いていた時、年端もいかないうちからこき使われるのを見かねた春日野が、栃錦を自分付きにした。その食事の世話をしながら様々な訓話を聞かされた。栃錦の十両昇進が決まった時に春日野の指示で靴磨きをしていたが、関取にしか着用を許されないドテラを着ていることに気がついた春日野から一度は叱責されたものの、直後に「おお、すまん。お前(栃錦)はもう関取だったな」と言われたことがあった。 同門で自分より若い千代の山雅信に出世で追い越され、一時期は千代の山との稽古を嫌っていた。しかし春日野から「そういう力士と稽古しないでどうやって追い越すんだ?」と言われてからは、千代の山との猛稽古を展開した。後に千代の山の息子が歯科医になった時には、千代の山自慢の突っ張りを何発も顔に当てた影響で早く歯を失ったため、「ワシは昔、千代の山との稽古で歯をやられたから、ワシだけは安く診てもらわないとな」と笑っていた。千代の山が引退して九重を襲名後、一門から九重が破門されても決して険悪にならず、栃錦が理事長として役員待遇を新設した際には九重を指名した。 同郷で仲が良かった大江戸勇二と江戸時代の大関・両國梶之助を描いた映画を見に行ったとき、映画の中のセリフを真似て「俺は天下第一の力士になる」と言うと、「大塚さん(栃錦)が天下第一の力士になったら東京中を逆立ちして歩いてやる」と笑われた。栃錦が大関に昇進した時、大江戸に「おい、何か忘れてないか?」と聞くと、大江戸は頭を抱えて「降参、降参!勘弁して下さい」と苦笑したという。 「自分にとって栃木山と双葉山は神様です」と語っていた。幕下時代、双葉山が春日野部屋の幕下力士全員を呼んで稽古をつけた時、栃錦はちゃんこ番だったにも関わらず志願して参加した。しかし、直前までちゃんこに入れる魚を調理してから手も洗わずに参加したため、双葉山と組んだ瞬間に「お前、魚臭いな」と冗談交じりに言われて放り投げられた。また、春日野の用事で料亭にいる双葉山を訪ねた時、その場にいた芸妓の美しさと、美女をはべらせて悠然としている双葉山の姿に胸を打たれ、強くならなくてはと誓った逸話を、後に明かしている。 兵役にとられた時すでに十両だったが、最初は力士とは思ってもらえなかった。上官との草相撲で手心を加えることなく連戦連勝し、それでようやく本職だと知ってもらえたが、やはり軽量のため「三段目くらいか?」「幕下か?」と言われ、なかなか関取だとは思ってもらえなかった。 蔵前仮設国技館での最初の場所となった1950年1月場所で新小結、土俵から四本柱の取り除かれた1952年9月場所で初優勝して大関昇進、国技館が正式に落成した1954年9月場所で横綱昇進と、当人も「相撲場で何か変化のあった場所はゲンが良い」と言っていた。
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