横綱時代-引退
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/27 18:31 UTC 版)
1904年1月場所は当初1月10日に開催される予定であったが、常陸山の体調を考慮して14日に延期するべきではないかという意見が年寄衆の大多数を占めた。10代雷の12日に開催すべきだという反対意見があったが、大口顧客の手配に狂いが生じるという相撲茶屋のクレームから13日に開催することになった。この場所で常陸山は優勝相当を記録している。如何に横綱とはいえ1力士の都合で本場所の開催日が変更されることはのちの感覚では有り得ないが、当時はそれだけ常陸山は観客動員や収益の面などで絶大な影響力を持っていた。同年1月13日付の時事新報は10代雷と常陸山の確執と見ていた。人気を盾に我儘を主張していると曲解した10代雷は多数派意見を採用せず、その鼻先をへし折ろうとしていたのではないかと、同紙は主張。同紙はまた、偏った見方と前置きしたうえで、梅ヶ谷を弟子に持つ雷の一連の頑迷とも思える態度は、自重すべきだったとも語っている。 1907年8月には弟子3人を連れて横浜港から欧米を漫遊し、セオドア・ルーズベルトと会見したのちにホワイトハウスで横綱土俵入りを披露した。1908年3月まで各地で相撲の紹介に勤めたため、同年1月場所は全休となった。怪我や病気などのやむを得ない理由が無いにもかかわらず、相撲の紹介という理由で本場所を休場することは現在の大相撲の感覚では考えられないことである。また、ニューヨークでは世界一の怪力と称されたアレキサンダーと力比べをして引き分けた話は有名である。帰国後には代議士立候補の話も出たが、常陸山はこれを固辞した。 1909年に自身の著書、「相撲大鑑」を著す。当時は力士が自ら本を記すことはほとんどなく、異例だった。 1910年1月場所は前評では梅常陸、太刀山、駒ヶ嶽、國見山、二代目西ノ海の4大関に注目が集まった。そんな中常陸山は9日目まで7勝1休(1休は相手力士が休場したことによるもの)と土つかずであったが、千秋楽は風邪を押して出場して太刀山と引き分け(この結果常陸山は7勝2分、太刀山は駒ヶ嶽と1預あり、よって6勝2分1預)、これにより優勝掲額を果たす。この場所の東西対抗戦は常陸山の東方が73勝対68勝で西方を抑えて勝利。しかし横綱昇進後は糖尿病・腰痛・腎臓病などの病気やケガに苦しみ、1914年6月場所をもって現役引退、年寄・出羽ノ海を襲名した。引退直後、4日間にわたって旧・両国国技館で引退相撲が行われた。
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