横綱玉錦へ入門
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祖父が村会議員を務め、父の三兄弟は相撲大会があれば賞品をせしめる村相撲の強豪だったことから、家から江戸相撲の関取を出したいという共通の夢を持つ地主の家で育ち、叔父の養子となる。 秋田の歩兵第17連隊に入隊し、師団対抗相撲大会で優勝、弘前師団大隊長の秩父宮から優勝カップをいただき、「秋田の連隊に力の強い男がいる。」と有名になった。井筒部屋、出羽海部屋からも誘いが来たが、現役横綱で二所ノ関二枚鑑札の玉錦が連隊長に直訴し、相撲好きの連隊長が除隊を認め、玉錦が井筒部屋と出羽海部屋に、部屋の力士に稽古をつけるから譲ってほしいと詫びを入れた結果、二所ノ関部屋に入門、若ノ花の四股名で1937年(昭和12年)1月場所で初土俵を踏む。20歳という遅いスタートであった。玉錦が急死したために指導を受けたのは2年足らずだったが、その後の人生に大きな影響を受ける。幕下時代に大ノ海と改名、1943年(昭和18年)1月場所新十両、1944年(昭和19年)11月場所新入幕、結婚して中島姓になると赤紙が来て秋田第17連隊に召集され入隊すると、かつての同僚たちが上官になっていて、「太りすぎていて兵隊として不適格」という理由とする温情で東京へ戻された。軽量であったが力は強かった。しかし、決め技がなく相撲の遅いタイプだった。@media screen{.mw-parser-output .fix-domain{border-bottom:dashed 1px}}稽古が嫌いでカレーを食べることだけが楽しみという無欲な性格も出世を妨げたと言われている[要出典]。
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