横綱昇進~栃若時代の到来
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「栃錦清隆」の記事における「横綱昇進~栃若時代の到来」の解説
1954年5月場所において14勝1敗の好成績を挙げ、大関では2度目、通算3度目の幕内最高優勝を果たす。この当時は横綱審議委員会の連続優勝に関する内規が成立しておらず、諮問されたが横綱昇進は見送られた。当時は東富士欽壹・千代の山雅信・鏡里喜代治・吉葉山潤之輔の4横綱が存在していたため、前例のない5横綱時代が実現しかねなかった。同年9月場所は初日黒星ながらその後は白星を順調に積み重ね、このまま連続優勝を果たすと思われたが、最悪の場合として今度も横綱昇進を見送られる可能性もあった。しかし、14日目になって東富士が突然の現役引退を申し出た。それを聞いた栃錦もすぐに付き人を使者に立てて引退しないように説得したが、東富士の意思は変わらなかった。そして、栃錦は吉葉山に勝利して14勝1敗で連続優勝を決め、場所後に第44代横綱へ昇進した。横綱昇進時の口上は「ありがたくお受けいたします」であった。また大正時代生まれ最後の横綱昇進者となった。 新横綱場所の1955年1月場所は初日にいきなり大昇充宏に小手投げで敗れ、金星を初供給してしまう。昭和以降の横綱で昇進場所初日が黒星だったのは栃錦が史上初の不名誉記録だった。その後も4日目に若瀬川泰二にうっちゃられるなど平幕戦だけで3敗を喫し、10勝5敗と不本意な成績に終わる。続く3月場所も初日に双ツ龍徳義に敗れたあと、5日目まで黒星と白星が交互するいわゆる「ヌケヌケ」の立ち上がりだったが、6日目から10連勝で盛り返し、終わってみれば12勝3敗、13勝2敗で優勝の千代の山雅信、優勝同点の大内山平吉に次ぐ3位の成績だった。横綱3場所目となる5月場所は初日から8連勝、9日目の時津山仁一に敗れたのみの14勝1敗で、横綱昇進後初となる5回目の優勝を果たす。5回の優勝はこの時点で千代の山と並び現役最多だったが、この直後の巡業中から体調を崩し、続く9月場所は7日目から初土俵以来初めての休場となる。このあとの1年弱は「土俵生活で一番辛かった時期」というほど衰弱が著しく、結局次の優勝(1957年9月)まで丸2年を要することになった。 1958年後半は不調で引退も囁かれたが、稽古不足で太った身体を逆に生かして正攻法の相撲に変え、1959年3月場所で「奇跡」と言われた復活優勝を果たし、その後は引退まで12勝を下回ることがない(昭和35年3月場所までの7場所間で95勝10敗、勝率.905)という驚異の成績を続ける。 1959年10月3日に春日野が亡くなると、前年に廃止されていた二枚鑑札が特例として認められ、年寄・春日野と春日野部屋を継承する。同年7月場所は優勝を逃したら引退と考えた上で挑み、場所前から床山に中剃を断っていた。この場所では14日目に優勝を決めたものの、その晩に祝宴に駆けつけようとした父親が交通事故死する悲運に見舞われた。この悲しみを乗り越え、翌日の千秋楽では若乃花幹士を破って全勝優勝を決め、亡父への手向けとした。千秋楽の取組では、左差し右おっつけの鋭い出足で若乃花を一気に寄り切った。この場所の優勝を決めた際、栃錦は「ワシが相撲取りじゃなかったら、親父もこんなことにはならなかった。やっぱりワシが死なせたようなもの」と喜びは無かった。最後の優勝となった1960年1月場所では、この年からエール・フランス航空が毎年、初場所の優勝力士をヨーロッパへ招待することになり、栃錦は武藏川とともに渡欧した。 1960年3月場所には若乃花と史上初となる「14戦全勝同士で千秋楽に対決」したが敗れた。若乃花との通算対戦成績は栃錦の19勝15敗。
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