横綱昇進〜引退へ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/14 09:08 UTC 版)
1951年5月場所を14勝1敗で3度目の優勝を挙げ、ようやく横綱へ昇進した。時を同じくして、横綱免許の権限を持っていた吉田司家の24世吉田長善による不祥事のため、免許権限が相撲協会に移行しており、千代の山は協会が独自に推挙した最初の横綱となった。念願の横綱に昇進した千代の山だが、昇進後も新入幕の頃より全く体重が増えず、思うような成績を暫く残せずに苦労していた。1953年1月場所は1勝1敗で途中休場から再出場で4勝4敗7休、3月場所は5日目で1勝4敗から休場と、2場所連続途中休場という成績不振の理由により、千代の山自ら「大関の地位からやり直しさせて欲しい」と異例の横綱返上を申し出た。だが当時の千代の山は横綱・大関陣で一番若かったため、協会は再起に期待の方針を出してこれを認めなかった(これ以降、返上・降格を申し出た横綱は存在しない)。協会の激励を受けた千代の山は同年5月場所も全休の後、同年9月場所では11勝を挙げ復活。そして1955年1月・3月場所で2連覇を果たし、さらに1957年1月場所には自身唯一の全勝優勝を達成した。 しかし、千代の山は新弟子時代の稽古中に膝へ重症の関節炎を患い、骨に穴を開けて膿を抜く手術を受けた影響でこれ以降は一時代を築けなかった。さらに場所中に独走すると強いものの他力士との混戦時は苦手だったらしく、1958年には僅差で優勝を3度逃す(3場所連続)ことがあり、結果的に1957年1月場所の全勝優勝が千代の山の最後の天皇賜杯となった。 優勝は6回であったが新入幕時代には羽黒山と同じ10戦全勝を記録しつつ、番付上位優勝制度によって逃したことがあるため、実質は7回といえる(うち全勝2回)。得意は突っ張りと右四つ、寄り。脇が堅く、相手に容易に左を差させなかった。また、突っ張りの強烈さは並外れており「太刀山の再来」とも評された。突っ張りの稽古台にされた栃錦清隆の歯が歪んだほどであるほど、非常に稽古熱心だった。最盛期でも192cm・120kg(112kgとの説もある)の細身ながら筋骨隆々とした体型で「鉄骨のやぐら」と称された。なお、現役横綱であったときに後の北の富士をスカウトしており、後の独立に際しては北の富士は九重(千代の山)に従うこととなった。 1959年1月場所限りで引退し、年寄・九重を襲名した。横綱在位数32場所は、それまでの羽黒山政司の30場所を超える当時歴代1位の記録だった。千代の山が土俵を去ったことで、1900年1月場所に常陸山谷右エ門が関脇に昇進してから60年間・138場所に渡って誰かが三役力士を務めていた出羽海部屋から三役力士が消滅した。
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