悲劇の横綱へとは? わかりやすく解説

悲劇の横綱へ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/02/06 02:42 UTC 版)

武藏山武」の記事における「悲劇の横綱へ」の解説

ところが、前場所で沖ツ海から強烈なぶちかましを右肘に受けたことで、右肘が破壊されたまま骨折と半脱臼重傷(右肘が真っ直伸ばせない状態だったという)であることが判明した入門からこの時点まで右腕怪力最大武器として出世した武藏山にとっては致命傷で、大関昇進以降その後遺症に苦しんで充分に相撲取れず休場相次いで優勝争いに加わることすら出来なかった。完治できる医者探し求めて欧米など行ったがついに治らず武藏山のかつての強さはとうとう戻らなかった。さらに、春秋園事件での脱退後動向優柔不断な態度取ったことから「裏切者」と批判浴びたことや、春秋園事件そのもの大関昇進問題武藏山先を越され天竜日本相撲協会対する不満が原因だったとされたことも、武藏山その後土俵人生暗い影落とした。それでも1935年1月場所千秋楽には初の全勝優勝を狙う玉錦阻んで8勝2敗1分、次の5月場所では9勝2敗の好成績で、同場所後に第33横綱昇進した横綱昇進後前述の肘の故障がさらに悪化、さらに胃酸過多症もあって休場ばかりで、ストレス食事も満足に取れなかった。皆勤したのは1938年5月場所のみ、それも6勝6敗同士横綱対決千秋楽行なわれる悲惨なのだった武藏山勝利して勝ち越したものの、対戦相手男女ノ川登三敗れて負け越しとなった。これが、かつて両國國技館沸かせ両者最後対戦となったのは皮肉で、武藏山幕内最高優勝小結時代1回のみ、右肘の故障無ければもっと活躍できたと思われる。さらに、横綱時代には最長で4連勝し達成できず(2020年現在までの最少記録)、番付でも東の正横綱地位に就くことは最後まで出来なかった。横綱在位3場所目で2回以上の休場昭和以降初で、横綱在位3場所目で皆勤無し昭和以降唯一新入幕から横綱昇進まで一度負け越したことが無く幕内通算勝率が7割を超えるに対して横綱時代成績はちょうど5割、休場多さもあって苦闘物語数字であり、まさに「悲劇横綱」だった。武藏山1939年5月場所最後に現役引退し年寄出来山(後に不知火)を襲名したものの、1945年には角界離れた

※この「悲劇の横綱へ」の解説は、「武藏山武」の解説の一部です。
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