悲劇の横綱へ
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ところが、前場所で沖ツ海から強烈なぶちかましを右肘に受けたことで、右肘が破壊されたまま骨折と半脱臼の重傷(右肘が真っ直ぐ伸ばせない状態だったという)であることが判明した。入門からこの時点まで右腕の怪力を最大の武器として出世した武藏山にとっては致命傷で、大関昇進以降はその後遺症に苦しんで充分に相撲が取れず、休場が相次いで優勝争いに加わることすら出来なかった。完治できる医者を探し求めて欧米などへ行ったがついに治らず、武藏山のかつての強さはとうとう戻らなかった。さらに、春秋園事件での脱退後の動向で優柔不断な態度を取ったことから「裏切者」と批判を浴びたことや、春秋園事件そのものが大関昇進問題で武藏山に先を越された天竜の日本相撲協会に対する不満が原因だったとされたことも、武藏山のその後の土俵人生に暗い影を落とした。それでも1935年1月場所千秋楽には初の全勝優勝を狙う玉錦を阻んで8勝2敗1分、次の5月場所では9勝2敗の好成績で、同場所後に第33代横綱に昇進した。 横綱昇進後は前述の肘の故障がさらに悪化、さらに胃酸過多症もあって休場ばかりで、ストレスで食事も満足に取れなかった。皆勤したのは1938年5月場所のみ、それも6勝6敗同士の横綱対決が千秋楽に行なわれる悲惨なものだった。武藏山は勝利して勝ち越したものの、対戦相手の男女ノ川登三は敗れて負け越しとなった。これが、かつて両國國技館を沸かせた両者の最後の対戦となったのは皮肉で、武藏山の幕内最高優勝は小結時代の1回のみ、右肘の故障が無ければもっと活躍できたと思われる。さらに、横綱時代には最長で4連勝しか達成できず(2020年現在までの最少記録)、番付でも東の正横綱の地位に就くことは最後まで出来なかった。横綱在位3場所目で2回以上の休場は昭和以降初で、横綱在位3場所目で皆勤無しは昭和以降唯一。 新入幕から横綱昇進までは一度も負け越したことが無く、幕内通算勝率が7割を超えるのに対して、横綱時代の成績はちょうど5割、休場の多さもあって苦闘を物語る数字であり、まさに「悲劇の横綱」だった。武藏山は1939年5月場所を最後に現役を引退し、年寄・出来山(後に不知火)を襲名したものの、1945年には角界を離れた。
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