悲劇の対決
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/14 19:18 UTC 版)
迷うワシントン 米本国は軍の増強に反対。どうすればうまく逃げられるかを考えているようだった。 反撃計画 1951年3月、再び38度線で膠着。3月24日に中共に対し本土を攻撃する可能性について声明。 「もし国連が戦争の範囲を朝鮮だけにとどめるという現在の忍耐強い努力から離れて、われわれの軍事行動を中共の海岸線と奥地にまで広げる事を決定したなら、中共はたちどころに崩壊の危機にさらされる。」 解任 4月11日ワシントン時間午前1時、トルーマンから極東総司令官を解任された。 離日 4月16日、離日。 米大使館から厚木までの道の両側には、200万の日本人がびっしり並んで手を振り、中には涙をみせてくれた人もいた。
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