誕生から横綱昇進までとは? わかりやすく解説

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誕生から横綱昇進まで

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/14 09:14 UTC 版)

若乃花幹士 (初代)」の記事における「誕生から横綱昇進まで」の解説

青森リンゴ農家10兄弟長男として生まれた1934年室戸台風のため作物全滅して一家破産状態北海道室蘭移住した沖仲仕などの力仕事従事し戦争傷痍軍人になった父に代わって家計支えた普通の男70 - 110kgの鉄鉱石石炭を担ぐところを国民学校卒業したばかりの花田は150kgを担いで何度も往復し荷物重さが200kgに達するなど後に相撲で発揮する身体能力片鱗見せた大人の倍は稼ぐ一方で鉱石入っているタンク落ちて死んで行くのはこういう気持ちか」と思うこともあり、3000ボルト電圧触れて頭をハンマー殴られたように吹っ飛ばされたこともあるなど、入門前から何度も生死の境さまよう経験をしていた。 1946年大関佐賀ノ花二所ノ関一門巡業催され相撲大会飛び入り参加本職力士数名倒した当時花田長身であった体重は70kgぐらいと推定され本職力士倒したとはいえ自分よりはるかに体格良い人間にはかなわず当時花田草相撲倒した経験のある人物の中には復員してきたばかりでのちにJRA顕彰馬マルゼンスキー生産し、元スピードスケート選手参議院議員橋本聖子実父でもある橋本善吉もいた。 本職力士倒したことが大ノ海(のちの師匠花籠)の目に留まり働き手失いたくない父親反対押し切って上京し杉並真盛寺間借りしていた二所ノ関部屋大ノ海内弟子として入門した条件は「3年関取になれなければ帰る」というものだったという。「若ノ花」の四股名大ノ海の若い時の名を譲られたもの。このため後年、「若ノ花若乃花全部何人か」という問題取りざたされた。もちろん、彼を初代とする数え方一般的ではあるが、自身は「師匠初代自分二代目」と数えていた。 入門後は「二所一門の荒稽古」で力を付けた。当時部屋幕内は、神風力道山佐賀ノ花琴錦など分家独立念頭に置いて内弟子厳しく鍛えていた者が多く稽古本場所さながら様子であった入門直後開催され双葉山引退相撲3階から見学すると、上から見た世紀大横綱意外に小さく見えて小さ身体の自分でも努力すればやれるのではと奮起した。最も彼をしごいたのは後にプロレス入りする力道山で、成績不振陥った場所後に景気付け兄弟子琴ヶ濱蕎麦食べ行こうとしたところ、力道山に見つかり夜逃げ勘違いされ目を付けられた。ある時、あまりの猛稽古土俵這ったまま立てなくなったが、それでも容赦がなく、このままでは殺される力道山の脛にかみ付き廻し姿のまま部屋から脱走し近く隅田川飛び込んだ。のちのプロレスラー力道山トレードマークである黒タイツは、この時の古傷を隠すためともいう。本人力道山からの援助教えは身にしみたと述懐している。 後に大関となる琴ヶ濱との稽古も凄まじいものだったという。当時高砂二所ノ関合同巡業を打つことが多かったので、東富士にも可愛がられた。鏡里もまた若ノ花によく稽古をつけていた。 1946年11月場所初土俵から各段優勝に近い成績で、1949年5月場所家族約束した3年より約半年早く十両昇進二所ノ関一門創始者である大師匠・玉錦明け荷贈られた。この間初め番付載った1947年5月場所1度だけ負け越したが(2勝3敗)、その後幕内上位進出するまで負け越すことはなかった。 大兵相手にもがっぷり四つ対抗する力士であった下半身強さ、特に膝のバネに独特のものがあり、「異能力士」とあだ名された。脚の筋肉付き方は見事であり、これは室蘭時代舟板の上での労役によるところが大きいとされる。その必殺技として名高い呼び戻し」 を実際に食った体験者である鳴門海などが、「腕力でなく、下半身からの力で投げ捨てられる感じ」と証言している。俵に足がかかってそれ以上後ろ下がらない足腰指して「かかとに目がある」と評されたこともある。本来は左四つであったが、上位と顔が合う地位になってからは右脇が固い先輩横綱千代の山攻略するために右差し研究1953年1月場所千代の山戦はそれが功を奏した一番と言われる。 この「異能力士」の他に、若き日は「オオカミ」のあだ名があった。一説力道山の脛に咬み付いた際の様子オオカミのようだったからとも言う。後に「ウルフ」のあだ名を持つ千代の富士出世する際にこのあだ名クローズアップされた。角界には“動物あだ名が付くと出世する”という言い伝えがあるが、若ノ花はその言い伝え証明するかのように番付上げていった。 1953年師匠大ノ海引退と共に二所ノ関部屋から独立し花籠部屋独立当初芝田山部屋)を創設するとそれに従うが、当初小部屋ゆえの苦労絶えなかった。巡業引き受け先が見付からず、「日本一の貧乏部屋と言われながら辺鄙な土地に出かけて部屋若い衆相手胸を貸す稽古延々と続けたという。 1955年9月場所、西関脇10勝4敗1分。この1引分横綱千代の山水入り取り直しの計1715秒に及ぶ前代未聞大相撲の末だった。この相撲評価され、場所後に関脇松登と共に大関昇進する昇進前3場所の通算勝ち星28勝(引分が2回あるので事実上29等しいが)なので、現在の目安言えば甘い昇進だったことになる。当人大関になれるとは思いもよらず番付編成会議の朝、家族とともに旅行に出かけようとしたところを新聞記者呼び止められたという逸話が残る。慌てて伝達式駆けつけたことと当時昇進伝達式口上定型化していなかったことが重なって大関昇進伝達式では「ありがたくお受けします」とのみ発して推挙状受けたという。1955年11月には父が死去し、母に懇願されて室蘭家族引き取った。こうして室蘭家族6人と自身家族4人、合わせて10人の生活が新大関となった自身の肩にのしかかった。しかし、新大関1956年1月場所は他の2大関負け越す中、優勝した横綱鏡里に1勝差13勝2敗、大関推挙失敗ではなかったことを自ら証明してみせた(ちなみに同時に大関昇進した松登は後に3場所連続負け越し大関陥落することになるが、大関陥落決定となる黒星付けたのは若乃花である)。 翌3月場所場所も12勝3敗で優勝決定戦出場。他の出場者は関脇・朝汐と東前15目・若羽黒で、これは昭和生まれ最初幕内優勝を争う決定戦ともなった若ノ花は若羽黒には勝ったが朝汐に破れ、朝汐がそのまま羽黒にも連勝して優勝決めた次の5月場所12勝3敗で前頭9目・大晃とのこれも昭和生まれ同士となる決定戦制して初優勝。朝汐に遅れること一場所で2人目の昭和生まれ幕内優勝力士になった両国離れて山の手優勝旗運ばれたのは初めてのことで、青梅街道には数十見学者集まったことで都電ストップ若ノ花乗せたオープンカーは、新宿西口から阿佐ヶ谷花籠部屋まで3時間かかるほどの大騒ぎとなった。 翌9月場所横綱をかけたが、場所前に長男がちゃんこ鍋をひっくり返して火傷亡くなるという悲運見舞われる稽古どころではなく本場所出場危ぶまれたが出場強行愛児の名を記した数珠をさげて場所入りし、支度部屋でほとんど一言発しないその姿は鬼気迫るものであった水入り苦戦を強いられることの多かった前頭5目出羽錦をあっという間に寄り切るなど初日から12連勝連続優勝横綱は確実、あるいは全勝優勝なるかと思われたが、扁桃腺炎発症高熱襲われ13日目を休場千秋楽には出場意欲見せ横綱錦と割が組まれたが当日病状悪化してやむなく休み不戦敗結局12勝2敗1休(2敗はいずれ不戦敗)に終わる。綱取りは夢と消えたが、皮肉にもこの悲劇が「数珠をさげた名力士」として若ノ花人気をさらに高めた。翌1957年には日活映画若ノ花物語土俵の鬼』を制作若ノ花自身出演した先輩横綱羽黒山は「若ノ花立ち直れたのは全盛期頂点にあったからこそであり、これがもし下り坂での出来事ならガタガタ落ちていった」という趣旨コメント残している。 同年9月場所より「若乃花」に改名画数占いすすめてくれる人があったのと、愛児一周忌機に心機一転をはかるためと言われている。 1957年11月場所12勝3敗の優勝次点で、翌1958年1月場所13勝2敗で2回目優勝果たし、場所後第45横綱推挙される。この1月場所直前横綱審議委員会横綱推薦内規定めていて、その適用第1号となった。この審議では、7人の委員のうち舟橋聖一が「大関で二場所連続優勝した場合」という原則崩したくないとして強硬に反対し、他の委員舟橋説得にかかり、最終的に委員長酒井忠正裁定一任するという形で舟橋折れ翌日番付編成会議酒井出席して横綱推薦答申出した昭和生まれ最初、かつ戦後初土俵踏んだ最初横綱である。昇進時の口上は「横綱として恥ずかしくない相撲取りますであった横綱は他の力士違って降格許されない地位であり、負け越せば引退以外に道はないため、自分が養うべき家族のことを考えて推挙を受けるべきかどうか、かなり悩んだという(大関以下の力士負け越してその時実力見合った番付比較長く現役続けることができるが、それは横綱には許されず、横綱負け越せば引退のみである)。 若乃花横綱推挙を受けることにしたが、問題があった。横綱自分専用三ツ揃え化粧廻し新調されるまでは一門先輩横綱から借りるのが通例だが、二所ノ関一門からは玉錦以来実に20年ぶりの横綱、しかも玉錦三つ揃い化粧廻し戦時中空襲焼けてしまって使用不能であるばかりか困ったこと土俵入り指導する先輩横綱一門にはいなかった。横綱昇進に際してどうした良いか判らずにいた若乃花助けたのは、理事長時津風とその弟子鏡里だった。事情知った時津風は自ら土俵入り指導引き受けてくれたばかりか、戦災唯一焼けずに完全な形で残っていた自身三ツ揃え化粧廻し貸し出すという計らいをしてくれた。

※この「誕生から横綱昇進まで」の解説は、「若乃花幹士 (初代)」の解説の一部です。
「誕生から横綱昇進まで」を含む「若乃花幹士 (初代)」の記事については、「若乃花幹士 (初代)」の概要を参照ください。

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