誕生から満州時代とは? わかりやすく解説

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誕生から満州時代

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/19 03:08 UTC 版)

朝比奈隆」の記事における「誕生から満州時代」の解説

東京府東京市牛込区現在の東京都新宿区市谷砂土原町小島家生まれ生後まもなく鉄道院技師朝比奈之助 の養子となり朝比奈姓となる。 虚弱児だったため乳母と共に神奈川県国府津漁村預けられ国府津町立国府津尋常小学校(現:国府津小)を経て小田原町第三尋常小学校(現:新玉小)に学ぶ。小学校3年3学期から東京呼び戻され麻布尋常小学校(現:港区立麻布小学校)に転入学。まもなく中学受験に有利ということ東京府青山師範学校附属小学校(現:学芸大附属世田谷小)に転じた旧制中学校受験では、東京高等師範学校附属中学校(現:筑波大附属中・高)や府立市立の有名校にことごとく不合格となり裏口入学のような形で私立高千穂中学校に進む。1922年大正11年3月旧制東京高等学校(現:東京大学尋常科2年編入試験受けて同校転入学した。 1923年大正12年)に養父亡くし1925年大正14年)には養母病歿したため朝比奈姓のまま生家小島家に戻る。この養父母死によって、朝比奈実父渡辺嘉一と知る。また、実母に関して朝比奈長男朝比奈千足は、朝比奈隆伝の著者中丸美繪に「父が、嘉一と小島里との間の子供であること、父が里の三男であることに関して確証がありません」と証言している。同年9月関東大震災焼け出されて朝比奈家同居していた父方親戚岡部左久司(当時早稲田高等学院在学中。のち内務省技官)の影響ヴァイオリン魅力惹かれ朝比奈家祖母からヴァイオリン焼け残り中古品を買い与えられことがきっかけで音楽興味を示すようになった当初東京高等学校尋常科音楽教師田中敬一ヴァイオリン習っていたが、やがて田中紹介橋本国彦師事するに至る。ヴァイオリン練習傍らサッカー登山スキー乗馬陸上競技などスポーツにも熱中していた。当時同級生かつヴァイオリン仲間篠島秀雄がいる。 旧制東京高等学校高等科文科乙類では同級日向方斎清水幾太郎宮城音弥内田藤雄平井富三郎、出淵国保がいた。旧制高校時代には友人弦楽四重奏団結成したり、1927年2月20日新交響楽団(現:NHK交響楽団)の第1回定期演奏会聴いたりもした。 1928年昭和3年)、京大音楽部指導者であるロシア人指揮者エマヌエル・メッテル目当てとして京都帝国大学法学部入学法学部在学中には同大学のオーケストラ京都大学交響楽団)に参加しヴィオラヴァイオリン担当。やがて指揮メッテル師事、その他、レオニード・クロイツァーアレクサンドル・モギレフスキー影響受けた1931年京都帝国大学法学部卒業鉄道省勤務実兄推薦により、月給60円で2年阪神急行電鉄(現阪急電鉄)に勤務電車の運転や車掌百貨店業務、盗電摘発 などを行う傍らチェリスト伊達三郎誘い大阪弦楽四重奏団ヴァイオリン奏者として大阪中央放送局 (JOBK) に出演1933年昭和8年)、会社員生活飽き足らずもう一度学問やり直したい」という理由退社し改め京都帝国大学文学部哲学科学士入学し、1年留年して1937年昭和12年)に卒業卒論中世音楽史を扱った内容だった。この間1936年昭和11年2月12日初めオーケストラ(後の大阪フィルハーモニー管弦楽団)を指揮また、1934年昭和9年)より月給30円で大阪音楽学校(現:大阪音楽大学)に非常勤講師として勤務し一般教養課程ドイツ語・英語・音楽史・心理学教えていたが、卒業後の1937年昭和12年)より教授となった1940年昭和15年1月31日新交響楽団演奏会チャイコフスキー交響曲第5番他を指揮しプロデビューを果たす。1941年昭和16年)、田辺製薬創始者田辺兵衛会長実弟、武四郎長女東京音楽学校ピアノ科卒の町子結婚し神戸市灘区篠原町に居を定める。同年日米開戦1942年昭和17年)からは月給200円で大阪放送管弦楽団首席指揮者となり、戦意高揚のため『荒鷲捧げる歌』『海の英雄』などを演奏1943年昭和18年11月末、中川牧三推薦大陸渡り同年12月8日の「大東亜戦争二周年記念演奏会」を皮切りに上海交響楽団1943年)で指揮上海滞在中、1944年昭和19年1月タラワマキン両島玉砕した兵士弔う歌の作曲海軍省から命じられ一晩書き上げる1944年昭和19年)、日本戻ってからは再び大阪中央放送局戻り、時おり慰問軍歌放送仕事をしていたが、同年5月要請受けて大木正夫満州国行き満州映画社長甘粕正彦会い、約1ヶ月新京音楽団(新京交響楽団)とハルビン交響楽団視察同年秋に再び要請され、妻と伊達三郎伴って渡満し、大木交響曲蒙古』を指揮同年12月にも渡満1945年昭和20年)には関東軍嘱託を命ぜられ、満州全土演奏旅行大阪神戸空襲被災した上、満州での活動波に乗ったこともあり、関東軍報道部長誘い1945年昭和20年5月には妻と長男呼び寄せて本格的に満州移住ハルビン特務機関指揮下に入りハルビンヤマトホテル居住したが、8月終戦迎えたソ連占領軍進駐後弟子元植(朝鮮語版)(後述)や朝比奈ファン歯科医小畑などによって日本人狩り暴徒から匿われつつ、1年以上ハルビン蟄居この間国民政府からの依頼中国人オーケストラ編成しアンサンブル指導行っている(1945年10月-1946年4月)。1946年昭和21年8月から2ヶ月かけて神戸自宅引き揚げた。

※この「誕生から満州時代」の解説は、「朝比奈隆」の解説の一部です。
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