平井富三郎とは? わかりやすく解説

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平井富三郎

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/06/22 13:44 UTC 版)

平井 富三郎(ひらい とみさぶろう、1906年12月13日 - 2003年5月20日)は、日本商工官僚経済審議庁次長通商産業事務次官を経て、退官後新日本製鐵(現日本製鉄社長東京府(現東京都)出身。1973年に藍綬褒章、1979年に勲一等瑞宝章を受章。2003年、脳梗塞のため死亡。

来歴

旧制東京高校(現東京大学教育学部附属中等教育学校)を経て、東京帝国大学法学部を卒業後、1931年に商工省(現 経済産業省)へ入省。製鉄所書記[1]。同期には、長村貞一(ジェトロ副理事長、経済審議庁次長、特許庁長官)、山地八郎など。

第二次世界大戦後の1949年、石炭庁管理局長から商工省化学局長(1949年2月12日 - 同年5月24日)に。以後、通商産業省通商振興局長(1949年5月25日 - 同年9月1日)、経済安定本部官房長(1949年9月1日 - 1952年7月31日)、経本副長官(心得、1951年5月1日 - 1952年7月31日)、経済審議庁次長(1952年8月1日 - 1953年11月17日)などを経て、1953年11月17日、愛知揆一通産大臣の下で、通商産業事務次官に就任、同年同月日に官房長には岩武照彦(のち中小企業庁長官)が就いた。1955年11月25日に退官。俗に岸信介 - 椎名悦三郎 - 美濃部洋次らの主流ラインである「産業派」、「統制派」に連なる。

1956年に新日鉄の前身八幡製鐵へ入社し、八幡製鐵所長などを経て、新日鉄発足時に副社長に就任。1973年より稲山嘉寛の後の社長に就任し、統合後の新日鉄を軌道に乗せるべく尽力した。

また1976年から1987年の間、日本サッカー協会の第5代会長を務めた。平井の在任期間中、現在のキリンカップの創設(当初はジャパンカップと呼ばれた)、インターコンチネンタルカップの日本誘致(トヨタカップ)、協会の財政基盤強化など、現在の日本サッカー隆盛に繋がる様々な施策が実現した。この功績により、日本サッカー殿堂に掲額された。

脚注

  1. ^ 『日本官僚制総合事典』東京大学出版会、2001年11月発行、288頁

外部リンク


先代
玉置敬三
通商産業事務次官
第3代: 1953年 - 1955年
次代
石原武夫
先代
稲山嘉寛
新日本製鐵社長
第2代: 1973-1976
次代
田坂輝敬




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