1976年の政変
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第二次世界大戦後から1960年代頃のJFAは、東京大学OBで会長を務める野津謙と理事長を務める竹腰を中心に据え、中央大学OBで常務理事を務める小野卓爾が実務を取り仕切り、大学サッカー界のOBが協会内の主要役員を務めていた。小野は実務能力に優れる反面、協会内の業務を一手に担っていたことから独断専行の側面もあった。一方、企業チーム出身者の多くは前述の大学OB達とは先輩後輩の間柄にあったものの、企業を代表する立場を採っていたことから両者の利害は一致することはなく、JSL初代総務主事の西村や第2代総務主事の重松は協会首脳陣に対して批判的立場を採っていた。 こうした経緯から1970年代に入るとJSL側から協会内改革を推し進めようとする動きが活発化した。なお、改革の必要性を説いたのは、元代表コーチのクラマーだった。1974年にJFAが法人化した際、三菱化成工業社長でJFA副会長を務めていた篠島秀雄を新会長に擁立する構想が浮上したが、篠島の急逝により頓挫。旧勢力は体制を維持し続けたが、1976年4月6日に行われたJFA評議員会において野津・竹腰・小野の退陣が決定。新日鉄社長の平井富三郎を新会長に迎え、古河出身の長沼が専務理事に就任するなど主要役員の若返りが図られた。この役員改選については長沼や平木らの改革派が、日本代表の成績不振や、8000万円(当時)にのぼるJFAの赤字財政など旧勢力の失態を突き、退陣を迫ったものとされ、「改革派によるクーデター」とも評される。ただし、1974年の野津会長らの留任は中立の立場をとる常務理事の藤田静夫による妥協策であり、旧勢力の退陣は既定路線だったとも指摘されている。 この後、JFAは企業チーム出身者が実権を握ることとなり、会長の平井と専務理事の長沼の下でJFAは慢性的な赤字財政からの脱却が図られ、後の財政基盤を確固たるものとした。一方で長沼以下、メキシコ五輪当時の指導者や選手が協会内の役職に就き影響力を行使するに至った点から「メキシコ組」「メキシコ五輪銅メダル組」「メキシコ体制」とも称された。
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