1976年の政変とは? わかりやすく解説

1976年の政変

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/16 03:23 UTC 版)

丸の内御三家」の記事における「1976年の政変」の解説

第二次世界大戦後から1960年代頃のJFAは、東京大学OB会長務め野津謙理事長務める竹腰を中心に据え中央大学OB常務理事務め小野卓爾実務取り仕切り大学サッカー界のOB協会内の主要役員務めていた。小野実務能力優れ反面協会内の業務一手担っていたことから独断専行側面もあった。一方企業チーム出身者多く前述大学OB達とは先輩後輩間柄にあったものの、企業代表する立場を採っていたことから両者利害一致することはなく、JSL初代総務主事西村第2代総務主事重松協会首脳陣に対して批判的立場を採っていた。 こうした経緯から1970年代に入るとJSL側から協会改革推し進めようとする動き活発化した。なお、改革必要性説いたのは、元代コーチクラマーだった。1974年JFA法人化した際、三菱化成工業社長JFA副会長務めていた篠島秀雄新会長に擁立する構想浮上したが、篠島急逝により頓挫。旧勢力体制維持し続けたが、1976年4月6日行われたJFA評議員会において野津・竹腰・小野退陣決定新日鉄社長平井富三郎新会長に迎え古河出身長沼専務理事就任するなど主要役員若返り図られた。この役員改選については長沼平木らの改革派が、日本代表の成績不振や、8000万円当時)にのぼるJFA赤字財政など旧勢力失態突き退陣迫ったものとされ、「改革派によるクーデター」とも評される。ただし、1974年野津会長らの留任中立立場をとる常務理事藤田静夫による妥協策であり、旧勢力退陣既定路線だったとも指摘されている。 この後JFA企業チーム出身者実権握ることとなり、会長平井専務理事長沼の下でJFA慢性的な赤字財政からの脱却図られ、後の財政基盤確固たるものとした。一方で長沼以下、メキシコ五輪当時指導者選手協会内の役職に就き影響力行使する至った点から「メキシコ組」「メキシコ五輪銅メダル組」「メキシコ体制」とも称された。

※この「1976年の政変」の解説は、「丸の内御三家」の解説の一部です。
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