1976年オリンピック
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/27 08:14 UTC 版)
「ラッセ・ビレン」の記事における「1976年オリンピック」の解説
ビレンはオリンピック以外の時期で走ることがオリンピックの時期よりも少ない。1976年モントリオールオリンピックでは再び5000メートル競走と10000メートル競走を連勝、2回連続でこの2種目に優勝することは「ダブルダブル」(Double double)と言われた。2回連続で5000メートル競走に勝利するのはビレンが初めてであり、2人目は2012年と2016年に優勝したモハメド・ファラーである。彼は10000メートル競走の決勝戦をより簡単に切り抜けることができた。というのも、イギリスのブレンダン・フォスターですら8000メートルまで走ったところでポルトガル選手カルロス・ロペスの徐々に上がっていたペースについていくことができなかったからであり(フォスターは結局銅メダルを獲得した)、そのロペスも当時は最後の1周でペースを大幅に上げることができなかったからである。ビレンは約9550メートル走ったところでロペスを追い越し、4.79秒差でロペスに勝利した。 モントリオール五輪で10000メートル競走に優勝した後、ビレンは自身のオニツカタイガー(英語版)(アシックス傘下)の「ランスパーク」(Runspark)を脱いでそれを観客に向けて振った。国際オリンピック委員会(IOC)はビレンが靴のトラ柄を見せたいなど善からぬ目的があると疑ったが、ビレンは水ぶくれができていたからだと主張した。IOCは5000メートル競走の決勝戦からビレンを締め出したが、ビレンは控訴して決勝戦の2時間前に参加の許可を得た。 5000メートル競走の決勝戦ではいずれも1500メートル競走でワールドクラスの実力を持つディック・クァックス、ロッド・ディクソン、ブレンダン・フォスターを破り、しかも最後の数周で圧倒的に先行していた。最後の1500メートルのみ計算した場合、実際の1500メートル競走の決勝戦で8位になるほどだった。最終的には1着から4着までの選手は6メートル差以内だった。5000メートル競走の決勝戦から18時間後、ビレンは男子マラソンに参加して2時間13分11秒の成績を出し、5着に終わった。
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